「自分は暇なのだ」
単純なこの言葉が、稲田の新たな可能性を拓きました。
心の世界に意識を向け続けられるのも、「やる事が無い」という感覚が意味するのも、面白さを求めているのも、暇だからこそでしょう。
あくせくして働く必要を感じず、正社員にも非正社員にも頓着せず、同じ職場に長居する事が無いのも、暇潰しでやっているに過ぎないからかも知れません。
「暇潰しならもうちょっと質の高い、面白味のあるものを選べば良いのに」…と思うのですが、そうなるともはや暇ではなくなるので、ワザと暇と退屈を感じるものを選んでいるのでしょうか。
きっと、心の奥深くでは「暇で在りたい」とでも思っているのでしょう。
何故そう在る事を求めたのか?
おそらく、「暇で在る事」を「楽で在る事」だと勘違いしてしまったのでしょう。
楽を求める気持ちは稲田にも確かにあります。
しかし、その楽は今感じている楽(暇)ではないのですよ。
こんな閉塞的な楽ではなくて、もっと開放的な楽です。
牢屋の中で禁固されている様なものではなくて、シャバでのびのびと自由に振る舞っている様な、そんな楽なのです。
自分に「暇で居るように」と注文を付けたのは、稲田本人です。
何故ならば、「その方が楽が出来るから」です。
自分を気遣っての事でしたが、結果的に自分を精神の牢に閉じ込めてしまう事になっていました。
その精神の牢は、「暇でいなければならない。そうでなければ色々と大変な目(楽が出来ない)に遭う」…と思わせる事により、自分を守る役目を果たして来ました。
何処にも悪意は無く、むしろ善意しか無く、そして健気であります。
しかし、稲田は明らかに自分が求めていたものと違う事を理解してしまいました。
そうなった以上、この精神の牢はお役御免としなくてはなりません。
「楽じゃなくなるかも知れない」という恐れは多少感じますが、もうそれは稲田を引き留める力を有しません。