「迷惑を掛けたくない」という呪い | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

稲田の中には「迷惑を掛けたくない」という意識が根強く在り、これは物事を始める原動力として非常に弱いものです。

日本人にとってもはや常識ですが、正直言って呪い以外の何者でもありません。

世の中には限界まで頑張り過ぎて、身体を壊したり、精神を病んだり、最悪自殺してしまう人が無視出来ない程数多く存在しますが、その根本にはきっと「迷惑を掛けたくない」が在る事でしょう。

そもそも、「迷惑を掛けたくない」とは、要は「~したくない」と言っているのですから、原動力になるわけがありません。

まだ、「~したい」という形になる「迷惑を掛けたい」の方が、原動力としては遥かにマシだと言えましょう。

ところで、迷惑って何でしょうか?

当たり前の様に使っている言葉ですが、果たしてその本質は何かを、人は知っているのでしょうか?

少なくとも、稲田は知りません。

知っていたら、「迷惑を掛けたくない」という意識は稲田の中に存在していない事でしょう。

大人は子供に「人に迷惑を掛けてはいけません」と教えますが、「迷惑とは何か」まで教える事があるものでしょうか(少なくとも稲田にそれを教わった記憶はありません)。

仮に、単純に言葉だけでそう教えると、素直な子供は「迷惑って何の事かはよく解らないけど、とにかくそれをやっちゃいけないんだな」と思い込むと思います。

こうなりますと、「何だか解らないものをやってはいけない」という、何だか解らない制限が意識の中で生じます。

何だか解らないものはどうやって守れば良いかも解らないし、どうやったらそれが生じて、どうやったら生じないかも解りません。

子供は子供なりに、他者の態度や表情から「これは迷惑な事らしい」という事を学びます。

その結果、育った環境によって千差万別の迷惑が生じます。

貴方にとっての迷惑は、稲田にとっては迷惑ではない事もあります。

むしろ、稲田にとっては嬉しい事である場合も有り得ます。

これは、稲田が「良かれ」と思ってやった事が、貴方の迷惑になる場合も有るという事です。

この時、「自分の善意は迷惑なのだ」と認識してしまったら、元から在った自分の価値観から生じた善意は、「迷惑を掛けない事が善意」という、他者の価値観に基づいたものに上書きされてしまうでしょう。

そうなると、自分の善よりも他者の善を優先する様になります。

内側に在る善を、外側の善で抑え込む事はとても強いストレスを生じさせます。

「火山が噴火しないように」と無理矢理火口を塞げばどうなるかは容易く想像出来ますが、人の内面となるととたんに想像力が鈍るのはどうしてなのでしょう。