早くもそれはやって来た | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

初の現象化(しそうな事)の記事になります。

ただし、表向きは大して好ましくない、自分にとってはちょっとした試練と言って良い類のものです。

稲田は普段あまり喋りません。

そんな自分を無口だと認識し、「喋りたくないから喋らないのだ」とずっと思って来ました。

しかし、「本当の自分はもっと感情を表現したいのに、今まで抑圧して来ただけではないのか」と深く考えさせられる出来事が起こりました。

「自分は怒りの適切な吐き出し方を学ぶ必要があり、それは望まなくても起こるだろう」…と14日の記事に書いた事が、今起こっています(実に早い)。

感情は怒りだけではありませんから、「自分は感情の適切な吐き出し方を学ぶ必要がある」と言い換える事にしましょう。

稲田は小さい頃から、割と放って置かれる事が多くありました。

ネグレクトや無視と言う意味ではなく、自分としては「好きにやらせて貰えている」と感じるもので、稲田自身もそれに満足していました。

その様な環境に馴れると、口喧しく言われたり、しつこく批判される事に対する耐性が備わらず、上手く対応する事も出来ません。

どうして良いか解らないので、ひたすら耐えるか、攻撃して黙らせるか、嫌と解っていても従うか、その場から逃げ出すか…位しか出来なくなります。

しかし、どの手段を用いても、“ある事”を省いている限り、後味の悪い結果になる事は一目瞭然です。

その“ある事”と言うのは、おそらく「自分の感情を率直に表現する事」だと今は考えています。

おそらく…と断言を避けているのは、稲田自身が「自分の感情を率直に表現する事を許可していないから」です。

許可していない理由を知らないと、実際に率直に表現したとしてもと「これで良いのだろうか?と迷う事になり、場合によっては「何だか悪い事をしている気がする」とばかりに、自分を悪者にしてしまいます。

そして、その態度は相手にも伝わり、その不安(期待)の通りに「やっぱり自分の方が悪かった」と感じさせる様な対応をさせてしまう事でしょう。

「何故、自分の感情を表現してはならないのか」

誰かに駄目だと言われた記憶はありませんが、仮にそう言われた結果だったにしろ、抑圧しているのは自分自身です。

ですから、その抑圧を解けるのも自分しか居ません。

「気兼ねなく言いたい事をズバズバ言えた(感情を表現出来た)ら、どれだけ快適だろうか」…と、今まで考えた事もありませんが、今はそれを考えています。

何かを心配するあまりに、何かを恐れるあまりに、その欲求を抑圧しているのだとしたら、「一体何を心配し、何を恐れているのか」をまず悟らねばなりません。

その恐れが取るに足らない、軽く無視出来る程度のものだと解ったら、稲田は言いたい事をハッキリ言える様になるでしょうか。

今、実際にその学びの場に居ますから、確り学ぼうと思います。