平均台から落ちるな | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

「見て見ぬ振りをしている都合の悪い方が自分に対する認識」…と言うのが、稲田の経験則です。

従って、稲田は自分の容姿に好ましくない認識を持っている事でしょう。

「外見の良い女性を求めたのは、外見の好ましくない自分の穴を埋めようとしていたから」

「外見が良くないと感じた女性を視界(意識)に入れたくなかったのは、外見の好ましくない自分が強く意識されてしまうから」

この理屈は後付けですが、おそらく外れてはいない事でしょう。

稲田が自身の容姿を認める、つまり「自分は心の底で、自分の容姿をこの様に思っていたのだ」と気付かない限り、外見の好ましい女性を側に置いても、そうでない女性を遠避けても、「自分の容姿を認められない」という結果にしかなりません。

しかし、「単純に悪く思っているだけ」とは言えない感じもしています。

認めていないのは、「自分の容姿を好ましく思っていない事」だけではなく、「自分の容姿が好ましい事」も含まれている様な、そんな感じです。

貴方にこんな経験はありませんか。

「本当はその異性が好きで、外見もタイプなのだが、自分に振り向いてくれる気配を見せないので、その外見の良さを素直に認める気にならず、外見に対しても悪く言って(感じて)しまう」

…今の稲田の「自分の容姿を認められない」という感覚は、この感覚に近いと感じているのです。

もしそうならば、「自分の容姿が好きである事を認めていない」という事になり、「容姿に対するコンプレックス」という意味 とは少々異なってきます。

「自分の容姿を嫌っている事を認めない」

「自分の容姿が好きである事を認めない」

どちらも「自分の容姿を認めない」という点では同じですが、認めるべき点は全く正反対です。

認めたいのはどちらなのか、あるいは両方なのか、それはもっと深く本音を窺ってみないと分かりません。

「本音を観て行く上で、自分にとって有り得ない可能性を見付けたら、そこで止まるべし」という経験則その2があります。

これは「有り得ない!」と即座に排除するでもなく、「これが本音だ」と早合点するでもなく、「その可能性を含めた本音を改めて観る事」を意味します。

稲田の場合、「自分の容姿が好きである事」が有り得ない事ですが、その有り得ないと判断している思考を無視して、「自分の容姿が嫌いである可能性」と「自分の容姿が好きである可能性」を等しく、本音の立場から「自分の容姿についてどうなのか?」を探らねばなりません。

その為には、都合の悪い方を排除したくなる意識と、都合の良い方を見たくなる意識の両方を無視する必要があります。

どっちに引っ張られても、「自分の容姿を認める事が出来ない」という同じ結果にしかならないからです。

平均台(本音に繋がる道筋)の上に立ち、右(都合の悪い方)にも左(都合の悪い方)にも落ちる事なく渡り切ったその先に、その本音が見える事でしょう。

幼い頃失った母親を得て、学生の頃満たせなかった容姿についての欲求を満たしたら、今度は女性の何を欲する様になるのでしょうか。