万物に実体は無い。全てが観念という幻想 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

この世の正体は「観念に対する反応を解釈したもの」です。

貴方が稲田(を通して見る貴方)に特定の観念を抱いているなら、良くも悪くも貴方の中に反応が起こるでしょう。

その反応が心地好いものであれば、「稲田さんは良い人だ」と解釈され、「良い人である稲田さん」が貴方の世界に顕れます。

不快なものであれば、「稲田とかいう奴は気に入らない」と解釈され、「気に入らない奴である稲田」が貴方の世界に顕れます。

反応に対する解釈と目の前の対象は何の関係も無いのですが、強引に結び付けて「反応に対する解釈=目の前の対象である」とし、それが実体を持つ存在であるかの様に見えているのがこの世であります。

解釈を生み出す大元が観念なので、「この世は観念である」と短く纏めても良いでしょう。

観念=世界であるので、観念を変える、あるいは観念が消失すると、文字通り世界が変わり、世界が消えます。

しかし、観念にも源が在り、観念を変える為にはその源を変えねばなりません。

その源こそが認識です。

あらゆる観念は「それをどう認識しているか」に支配されています。

認識されていない観念は生じず、観念が生じない為に反応も解釈も起こりません。

世界(観念)を生み出す源泉が認識ですから、認識が変われば世界は丸ごと変わります。

見えている対象も、それを見ている自分も何一つ変わらぬ姿でそこに在りますが、生ずる反応や解釈が全く違うものに変わります。

稲田が自分を知る事に拘る理由は、観念だからけの歪んだ世界から自分を解放、また世界をその(自分を知る為の)役割から解放したいからです。

その為には、解釈の源である反応を、反応の源である観念を、観念の源である認識を知らねばなりません。

解釈・反応・観念を知っても自分を知る事になりません。

それらの源泉である認識を知らねば、自分を知るに至らないでしょう。

認識にも源が在り、それが在るからこそ認識が起こるのでしょうが、それはおそらく分離を超えた領域である事でしょう。

認識が分離の最先端、分離の源であるならば、分離を超えたその源を知る(認識する)事は永遠に出来ません。

知る事が可能なのは、「自分(と呼んでいるもの)をどう認識しているか」までが精一杯だと思いますが、それでも見えている世界(この世)を変えるには充分です。