・何かを欲しいと思う(執着する)事
・欲しい物を得る為に努力or苦労or頑張らなければならないと思う事
稲田はこれらをおかしい事だと認識しています。
何故なら、
・本当に欲しい物は欲しいと思う迄もなく得ている
・本当に欲しいものは努力も苦労も頑張りも必要なく自然と得ている
…と認識している為です。
今では「これから得る」と言う考えは無く、「既に得ている」と言う考え方しか出来ません。
稲田が「何かを欲しい」と思ったり、「頑張っているな」と感じたら、自分の中で「何か妙だ」とストップが掛かります。
そして、その“何か”を探るべく思案に耽るのですが、稲田がする努力はそれだけです。
しかし、思案に耽る事がやりたい事であり趣味でもあるので、それを努力だと認識する事は出来ません。
つまり、稲田は何がどうなっても努力をする事は出来ませんし、努力を自分に課す事も出来ません。
「頑張りなさい」=「思案に耽りなさい(何故そうなのか、謎々を解きなさい)」と自動変換されるので、世間一般的な解釈で言う努力は出来ませんし、意味すら理解出来ません。
話は変わりますが、稲田が楽しみに読んでいるブログの一つに心屋仁之助さんの「心が風に、なる」があります。
その中で『前者か、後者か』と言う、心屋さんもかなり熱と力を入れておられるテーマがありますが、稲田は心屋さんが仰るところの“後者”です。
ずっと自分は不器用で何も出来ないと思っていましたが、それは出来ない自分で在る為にわざわざ出来ない事を選んでやっていただけの事でした。
「何故出来ない自分で在る必要があるのか?」と言いますと、「出来る自分になりたいと思う為には、出来ない自分で在る必要」がある為です。
幅広くこなせるタイプを“前者”と心屋さんは表現されていますが、稲田は前者になる事が自分が認められる為の手段とばかりに、出来ない事に手を出しては玉砕を続けていました。
世間一般的な努力とは、その事を指すのではないかと思うのですが、稲田はこの努力を完全に放棄した訳です。
今では「出来る事だけやる。出来ない事や、自分より得意な人が要るなら、他の人に任せた方が良い」と考えています。
正直、出来もしない事を率先してやるよりは、その方が円滑に物事が進みますし、自分も他人も楽だと感じています。
人は自分が得意な事なら、大抵の場合喜んでやってくれます。
また、「自分には出来る事と出来ない事がある」と意識の中ではっきり明確にしていると、どういう訳か自分にやれる範囲の事しか要求されません。
稲田に出来るのは「自分について知る事」だけです。
「他人について知る事」は出来ませんし、自分の事以外に知る必要があるものなど何も無いとさえ考えています。
仕事の中であれ、日常生活の中であれ、例え何かを覚える必要に迫られたとしても、それは「自分について知る為」であって、「仕事を覚えて会社の役に立つ為」でもなければ、「日常を円滑にする為」でもありません。
「自分について知る為に必要だ」と認識されたなら、おそらくどんな内容の仕事でも覚えようとするでしょうし、生活上のどんな労も惜しまないでしょう。
人はそんな稲田の姿を見て「大変な努力家だ」とか、「凄い苦労している」と評するでしょうが、その時の稲田は全く努力も苦労もしていません。
努力無くして努力と成る。
稲田の中での努力とは、「やりたい事だけをやる事」です。
「やりたくない事をやって、やれない事をやれる様になる為に頑張る事」ではありません。