「悟る」とは「気付く事」とか「認識する事」です。
それはすなわち、「~だと思う」と言う想像や期待ではなく、「事実である」と言うただそれだけのシンプルな事です。
「気付く事」は日常的に起こっていますから、悟り自体は非常に身近なものです。
良く言われる、人が滅多に到達出来ないと言う意味での「悟り」とは、「自己の不在は事実である」と言う気付きです。
その前に、「自己とは何か?」について稲田の見解(…と言うか認識)を述べます。
貴方は今そこに存在するでしょう。
貴方は貴方の存在を認識出来ます。
貴方が認識しているその「存在する感覚」を「自分のものだと認識している状態」を自己と呼びます。
しかし、その「存在する感覚」が貴方のものだと言う根拠は何処にも見出せないでしょう。
かといって、全存在が共有していると言う根拠も何処にも見出せないはずです。
「特定個人のものとする根拠も、全存在に共有するものとする根拠も無いが、この感覚を所有していると錯覚しているだけで、実はそうではない」と言う気付きが、自己の不在です。
…が、ここまでは正直どうでも良い話です。
思案すべきは「如何に自己の不在を悟るか」ではなくて、「自己の不在を悟ってどうしたいのか?」です。
伝える側の立場になるならば、「他者に自己の不在を悟らせて、自分はどうしたいのか?」です。
「如何に自己の不在を悟るか」について最も考え得るケースは、「悟って私を凄い存在だと認めたい(認められたい)」か、「悟って全ての悩みや苦しみから解放されたい」の何れかです。
また、「如何に他者に自己の不在を悟らせるか」については、「悟らせる事によって感謝や尊敬をされたい」か、「自分と同じ感覚を共有したい(分かち合いたい)」の何れかと思います。
「悟って私を凄い存在だと認めたい(認められたい)」や「悟らせる事によって感謝や尊敬をされたい」の真意は、「自分に対する価値を見出したい」と言う事ですから、悟るべきは自己の不在ではなくて自分の価値です。
つまり、自己肯定や自己承認が本当の望みなので、自己の不在についてあれこれ思案したところで何の成果も得ないでしょう。
「悟って全ての悩みや苦しみから解放されたい」と言うケースは、「悩みや苦しみの正体を知りたい」が真意ですから、自己の不在に逃げ続ける限り、あるいはその正体を自ら見極めない限り、やはり何の成果も得ません。
「悟り」に限りませんが、「顕在意識上で思い浮かぶ願望は全てダミーだ」と認識した方が良いでしょう。
本当に欲するものは全て、顕在意識に浮かぶ前から既に得ています。
…にも関わらず、顕在意識上に願望が浮かぶ様なら、それは既に得ているものを見失っている状態です。
見失っているだけで失っていませんから、後はそれに気付く(悟る)事で、現象の世界に働き掛ける事なく、その場で欲する物を得ます(見付けます)。
「自己の不在を悟る事」に隠された真意が必ず在り、人が悟りたいのは自己の不在ではなくてその真意の方です。
悟れずに悩むと言う事は真意を悟っていないから悩むのであって、真意とは何の関係も無い自己の不在を求め続ける限り、その悩みは続く事でしょう。