・自由
・余裕
・感謝
・信頼
・富
・喜び
「お金を求める時は本当は何を求めていて、お金が無い時は本当は何が無いのか」を考えた結果、候補に挙がって来たのは以上の六つです。
真っ先に思い付いていたのは自由ですが、この中で最もお金に期待する要素は喜びだと感じます。
喜び無き自由や余裕はややもすれば退屈となりますし、喜びを伴わない感謝は只の社交辞令でしかありません。
富の中にも喜びは伴って然るべきでしょう。
信頼とは認める事、つまりは自己(他者)承認に分類されましょう。
承認にもまた喜びは伴いますから、稲田の行動原理は喜びに基づいているのかも知れません。
今は「お金の本質は喜びで在ると思う」に留まっていますが、「思う」では事実となりません。
「お金の本質は喜びで在ると認識する」に至って、初めて事実となります。
それが事実となれば、喜びを生み出す量が稲田に出入りするお金の量を決める事になるはずです。
ですが、稲田にはまだ考えたい事があります。
「喜びの本質は何か?」です。
お金の本質が本当に喜びならば、これ以上深く知る事は出来ません。
しかし、喜びも何かしらの本質によって支えられているならば、「喜びの本質がお金の真の本質で在る」と言う事になります。
稲田が求めるのは完全な解です。
「綺麗にすればする程汚くなる物は何か?」…と言う謎々で例えるならば、「掃除用具」と言った漠然とした答えではなく、その謎々を考えた人が設定した「雑巾」と言う答えが完全な解です。
掃除用具は限りなく答えに近いヒントですが、喜びもまた限りなく答えに近いヒントに過ぎない可能性があります。
純銀で出来た宝箱はそれ自体が宝と言えますが、箱の中身が純金であるならば、真の宝は中身である純金です。
喜びでも充分に納得し得る宝と言えます。
行動原理として機能するにも充分なエネルギーになりますが、稲田にとっての関心は、「本当にそれが最奥なのか?」と言う事です。
かなり良い線まで来ていると感じますが、「もう一押し必要だ」とも感じます。
それは「お金の本質が喜びで在る」と認識に至る為に更なるヒントを要する事を意味するのか、それても「さらに奥に喜びの本質と言うものが在る事」を意味するのか、それはまだ分かりません。
これでもう少し悩む事が出来ます。