「感情の先取り」ならぬ「認識の先取り」 | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

願望実現テクニックの一つに「感情の先取り」と呼ばれるものがあります。

「望んだものを手に入れた時や、望んだ自分に成った時の感情を先に味わう」…と言うものです。

現象化とは気付く事によって、つまり認識する事によって、初めて起こります。

「起こる前から現象化されているからこそ、それに気付く事が出来る」と考える事も可能ですが、気付かない限りそれは気付いてない自分にとって無いも同然である事に変わりありません。

気付きが先にしろ、現象化が先にしろ、実質的には両者はほぼ一体であると言う解釈で、そう大きな間違いは無いだろうと思います。

「感情の先取り」は「そう成ったつもりで…」と言うニュアンスが強いですが、「認識の先取り」は「既にそう成っている」です。

「成ったつもり」と「成っている」の間には、「偽った自分」と「本当の自分」、「虚偽」と「事実」の様に、偽物と本物を比べる様な違いが在ります。

ですから、自分に素直で在ろうとすればする程、「認識の先取り」が可能な領域に近付ける事になります。

そして、自分に素直に成り切った時、「認識の先取り」が起こります。

その結果、「自分は既にそう成っていた」と気付く事により、「そう成った自分」が現象化される事になります。

「そう成った自分」からは、それに相応しい思考や感情が意識せずとも起こるでしょう。

意識しないと起きない感情と、無意識に起こる感情。

顕在意識による感情と、潜在意識による感情。

どちらが今の自分にとって事実か。

どちらが今の自分を強く支配するのか。

成ったつもりの自分と、成っている自分、本当に目指す自分はどちらか。

答えは明らかです。

「成ったつもりの自分」で在りたいなら、自分以外の何者かとして、役者として振る舞う事が本当の望みであるなら、「感情の先取り」は有効でしょう。

しかし、「成った自分」で在りたいなら、「認識の先取り」が不可欠です。

そうでなければ、現象として知覚・認識出来ないのです。

成っていない自分の正体とは、「そうで在る事に気付いていない自分」であり、成った自分の正体とは、「既にそうで在る事に気付いている自分」です。

「気付くか気付かないかの違いだけであって、どちらも同じ」と言われる事もありますが、稲田から言わせてもらえば「気付くか気付かないかの違いは、その当人にとっては天地の差が在る」と思います。

どちらも同じと言えるのは、気付いていない自分と気づいた自分の両方の自分を充分に体験した者だけが言える事です。

どちらも同じ自分、つまり「存在する感覚そのもの」は全く変わりませんが、その感覚が生み出す思考・感情・行動・現象は全く変わるでしょう。