自己肯定の思いに耽る中、「一体存在の何を否定しているのか?」と言う疑問が浮き上がって来ました。
浮かんできたフレーズは「一体“自分”の何を…」ではなくて、「一体“存在”の何を…です。
その時、それまで騒がしかった思考がピタッと止み、「はて、どういう事だろう」と考えに耽りました。
稲田は「一体何を自分だと認識しているのか?」と言うと、「存在すると言う感覚」を自分だと認識しているわけです。
自分が「存在すると言う感覚」ならば、その感覚の何を否定しているのかと言うと…答えが見付かりません。
「存在感の何処を否定すれば良いのだ?」…と一所懸命に否定する理由や材料を探してみましたが、見付かりませんでした。
なのに、何故か否定されていると言う現象が起きている事に気付きました。
無条件の肯定ならぬ、無条件の否定です。
これはとても不可解ですが、同時にとても不思議な現象です。
「否定が不可能なものを否定出来てしまっている」のですから、これはとんでもない奇跡と言う他ありません。
この奇跡は言うなれば、「空間そのものに絵を描く事」に等しいものです。
ですが、それをやれてしまっている事は疑いの無い事実です。
意味も条件も無く否定が出来たのなら、同じく意味も条件も無く肯定も出来るはずです。
稲田の自己肯定とは、「存在すると言う感覚そのもの」を…
・価値が在ると認める
・好きになる
・尊敬する
…と言う事です。
これで、否定されている対象と肯定すべき対象が見出されたと思います。
最も近く親しい存在であった、「存在すると言う感覚そのもの」がそれです。
後は、それに対する真意を意識の中から見出すだけです。