スピリチュアルは逃げる為の手段ではなかった | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

稲田は指図される事(され方や気分にもよりますが、基本的に嫌)や、自分が分からない事を人に尋ねる事に不快感を覚えます。

社会に出て働く上で、この二つはどうやっても避けて通る事は出来ませんが、これらの現象はダミーであって、これらを避ける事を考えても意味がありません。

それらの本体とも言える“何か”が嫌なのであって、必要なのはその正体を知る事です。

この二つから見る事が出来るのは、「稲田には変なプライド(のようなもの)が在る」…と言う事です。

指図を受ける事も、分からない事を尋ねる事も、意識のどこかで「自分は下に見られている」とか、「自分が分かっていない事がバレたら、軽んじられてしまう」と感じているのかも知れません。

稲田がそう感じているとするならば、稲田は「自分を他者の下に置いている」し、「自分を軽んじている」と言えます。

ですが、それもやはりダミーです。

仮にそうであるならば、稲田はさらに「何故自分を他者の下に置いたのか」や、「何を根拠に自分を軽んじているのか」を、自らに問わねばなりません。

「自分を他者の下に置いていると分かった。ならば他者の上に置けば良いのだ。その為にどうしたら良いのか考えよう」…では、逃げになってしまいます。

稲田が知らねばならないのは、自らを蝕む病巣の正体であって、病巣が引きが起こす症状をどうにかする事ではありません。

対症療法ではなく、根本的な治癒が必要なのです。

病巣を放置していれば、同じ症状は何度でも現れて自らを苦しめるでしょう。

しかし、その苦しみの正体を知る事が唯一病巣を取り除く手段であると同時に、病巣に見えていた本当の自分の願望を知る唯一の手段である事でしょう。

働く事で何度も嫌な思いをし、その度に耐えるか逃げるかして何とかやり過ごして来ました。

最後の頼みの綱、これ以上無い切り札とした引き寄せの法則や悟りの概念ですら、それらを回避する事は叶いませんでした。

稲田が意識の向きを見なかったせいで、完全に用途を間違えていたからです。

それらの正体を見る事が意識の向きに沿う事だったのに、回避する為にスピリチュアルを用いたのが過ちでした。

スピリチュアルは回避する為の手段でも耐性を得る為の手段でもありませんでした。

スピリチュアルは、それらの正体を知り、自らの力として取り戻す為の手段だったのです。

(今はそう感じていますが、後でまた違う理解に変わるんでしょう、きっと)