盛大に盛られる言葉 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

伝言ゲームと言うのをご存知でしょう。

あれは最初に伝えた言葉が10人先の相手にそのまま伝わる事はまずありません。

最初と最後でかなり違う言葉になってしまいます。

僅か10人、時間にして数分ですらその有り様です。

それが数億人、数千年ともなればどうなるかは想像に難くありません。

今伝わっているものも、原初は限りなくシンプルであったろうと想像しますが、伝言ゲームの原理で相当に盛られた表現になっていると思います。

もはや最初の言葉など原型の欠片も見当たらないでしょう。

言葉を用いる限り、どんな天才であってもその宿命は変えられません(言葉の限界を超えません)。

それは、言葉を発する側だけではなく、言葉を受ける側も同様です。

言葉に頼り続ける限り、言葉の範囲の中から出る事は出来ません。

言葉の範囲の中に欲するもの(やり方)が在ればそれで良いです。

しかし、言葉の範囲の外に欲するもの(在り方)が在るなら、それ(言葉に頼る事)では駄目です。

言葉の範囲を超えるものを指し示すのに、一番邪魔になるのは言葉です。

どうしても言葉を用いるなら、それは極限まで省かれなければなりません(このブログの様に、1000文字前後も言葉を並べるのは論外です)。

「言葉を聞いて分かる」のと、「言葉に依らないで解る」のとでは全く違います。

貴方が真に欲する事は、全て「言葉に依らないで解る事」ばかりです。

故に、本やブログを読み漁り、講演会やセッションに熱心に通っても、それのみでは「言葉を聞いて分かる事」は得られても、「言葉に依らないで解る事」は得られません。

「言葉に依らないで解る事」は、一切の例外無く自らの意識の中から見出さなくてはなりません。

貴方は誰の本やブログを読んでも良いし、講演会やセミナーに好きなだけのお金や労力を注ぎ込んでも良い。

しかし、貴方が「言葉に依らないで解る事」を望むのであれば、常に「意識の方向を見ると言う意識」を持ち続ける(意識の向きを知る)事が必須です。

「意識の方向を見ると言う意識」が在る、つまり「意識そのものが意識の向きを見ている事」を貴方が知った時、貴方は誰の言葉も必要とせず、ただ意識の向きに従って歩むでしょう。

それでも尚、「他人の言葉を見聞するのが面白い」と言うのであれば、貴方は変わらず他人の本やブログを読む事や、講演会やセミナーに通う事を楽しむでしょう。

「もはや他人の言葉は必要ない」となれば、貴方は他人の本やブログを読む事を止め、講演会やセミナーに通う事を止めるでしょう。

意識の方向を知り、それに従っていれば(抵抗しなければ)万事OKだと知れば、貴方は外に起こる出来事に振り回されませんし、関心も興味も抱きません。

全ての関心や興味、拠り所は己自身(意識の向き)のみに集約されるからです。