無苦集滅道とは、「苦しみ(苦)も、その原因(集)も、それを無くすこと(滅)も、そしてその方法(道)も無い」という解釈がされている様です。
少し前の記事で「引き寄せの法則を利用する事は不可能だ」と書きましたが、それも表現は違えど同じ様な意味です。
まず、「有る・無い」の二元視点ではこれを読み解く事は出来ません。
二元視点の「無い」で解釈すると、「苦しみも、その原因も、それを無くすことも、そしてその方法も無い」と言う事は、同時にその対極である「苦しみも、その原因も、それを無くすことも、そしてその方法も有る」が存在する事になる為です。
二元の概念は“私”によって支えられます。
つまり、その“私”が存在しなければ、全ての二元の概念も存在しなくなります。
般若心経では冒頭で「五薀皆空」と表現されていますが、五薀(簡単に言えば“私”)が存在しないならば、苦しみと言う概念も、原因と言う概念も、方法と言う概念も、存在と言う概念も全て存在しなくなる事でしょう。
この“私”が確実に居る、つまり「エゴが有ります」と間違いなく言える者は、稲田しか居ません。
稲田は貴方に対し、「貴方にもエゴが有る」とも「貴方にはエゴが無い」とも断言出来ません。
もっと言えば、「エゴが有るとも無いとも言えない」…とさえ言えないのです。
稲田にはエゴが有るので、貴方にもエゴが有る様に見えるのは間違いありません。
しかし、「貴方にもエゴが有る様に見える」事と、「貴方にもエゴが有る」と言う事とは違います。
前者は稲田にとって事実ですが、後者は稲田の想像や判断に過ぎません。
その様な想像や判断が起きた事自体は事実であっても、その想像や判断の内容は「事実であるとも事実ではないとも言えない」…とさえ言えない(答えが無い)のです。
話が逸れましたが、貴方は無苦集滅道のそれです。
貴方がどれ程苦しんでいる様に見えても、稲田が貴方を救う事は不可能です。
逆に、稲田は無苦集滅道に至れない代わりに、貴方から救ってもらう事が可能です。
稲田が貴方を救ったとしても、貴方が「救われた」と感じるかどうか、稲田は永遠に知る事が出来ません。
貴方に稲田が救われた時、稲田はその時「救われた」と感じた事は、稲田の事実として間違いない事になりましょう。
稲田は貴方に与える事は出来ませんし、貴方は稲田に与える事しか出来ません。
稲田が貴方に与えたように見える現象、貴方を救ったように見える現象が起きたとするならば、本質的に何が起こったのかと言えば、稲田は貴方に与えられ、稲田は貴方に救われたのです。