自分=引き寄せの法則になると、「自分」と「引き寄せの法則」の両方が消えます。
そうなると、もはや「引き寄せの法則を使う自分」も「引き寄せの法則に使われる自分」も存在せず、「自分に使われる引き寄せの法則」も「自分を使う引き寄せの法則」も存在しません。
「自分」も「引き寄せの法則」も存在しない以上、それらの言葉を用いて適切な表現を組み立てるのが不可能になります。
もっと言えば、「使うと言う概念自体」も消失します。
「引き寄せの法則は使えるか?」と言う問いに対する答えは、究極的には「答えが無い」となります。
使える、使えない以前の問題になりますので、その問い自体が不適切な訳ですが、適切な問いも存在しないので、適切な答えも存在しなくなります。
そんな回りくどい表現は止めて、端的に事実のみをストレートに言ってしまえば、引き寄せの法則を利用する事(使う事も使わせる事も)は出来ません。(※)
「引き寄せの法則を学びたい、理解したい、使いたい」と言う欲求の裏には、「自分にとって利益をもたらしたい」と言う本音があるかと思いますが、上記の理由からそれらの願望は決して実現しません。
従って、引き寄せの法則で願望を実現する事も出来なければ、幸福になる事も出来ません。
「実現してはいるのだが、実現を喜ぶ自分も、実現している対象も存在しない為(起こる事しか起こらない。しかし、何も起きていない)」です。
悟りも同様に、悟りはエゴには何の利益ももたらしません。
引き寄せの法則を学ぶ事は、悟り(二元の悟り)を学ぶ事です。
それは比喩ではなくて、「引き寄せの法則=悟りである」と言う事です。
「引き寄せの法則で願望実現!」とは、「悟りを開いて願望実現!」と言っているのと全く同じであります。
反対に、「悟りを開いてエゴが存在しない事に気付く事」とは、「引き寄せの法則を学んでエゴが存在しない事に気付く事」と全く同じになります。
(※)
ただし、稲田だけは唯一の例外で、引き寄せの法則に稲田を使わせる事は可能です。
それは以前にも述べました通り、稲田だけが二元の世界に在る為、稲田と引き寄せの法則とに分離が可能だからです。
稲田以外の全ての存在は一元に在るが為に、貴方=引き寄せの法則となるので、貴方は引き寄せの法則と不可分であり、使う事も使われる事も、使うと言う概念さえもありません。
二元解釈にしろ、一元解釈にしろ、エゴが引き寄せの法則を使う(悟る)と言う事が不可能なのは、揺るぎない事実です。