恋愛は恋でも無ければ愛でも無い | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

ニュアンスとしては、「水は氷でも無ければお湯でも無い」と言う感覚で捉えて頂ければ…と思います。

少し長い前振りから始めますが、「氷もお湯も水で在る事」は何方にも事実として受け容れておられる事でしょう。

しかし、「凍って個体になった氷を水とは呼ばないし、沸騰して火傷するくらい熱くなったお湯を水とも呼ばない事」もまた、何方にも事実として受け容れておられる事でしょう。

氷が欲しい時に、「凍った水をください」とは言う人はます居ないでしょうし、お湯が欲しい時に「火傷する位熱い水をください」とも言う人もまず居ません。

「恋と恋愛と愛は、氷と水とお湯の様に、本質的には同一であっても、状態が違うのだから、恋を愛とは呼ばないし、恋愛を恋とも呼ばないのだ」…と今回、稲田は言いたい訳です。

稲田としては、水と氷とお湯の中で最も愛に近いのは水で、恋愛はお湯だと感じていますので、ここでは「氷を恋、水を愛、お湯を恋愛」に例えたいと思います。

この例えを採用するならば、「恋と恋愛は相反する概念で在る」と言う事になります。

仮にこの例えを採用せずに、「氷と水とお湯の中で例えるならば、愛はお湯で在る」としても、自身が異性に求めるものは「冷たいものではない」と言う事に変わりはありません。

あまり居ないとは思いますが、「愛(もしくは恋愛)は氷だ」と言う方が居らっしゃるなら、それはそれで構いません。

「冷たい関係が心地好い」と言う方も中には居らっしゃるかも知れませんが、それはかなり少数派であろうと思います。

恋愛をしている時、あるいは恋愛を求める時は、「心や気持ちが温まらないまでも冷えてはいかないもの」を期待しているはずです。

ですから、恋愛(だと思える現象)において絶望とか焦燥と言った、心を冷やすような感覚を覚える場合、それが自身の求める恋愛のイメージと違うなら、何処かが変です。

少なくとも、「恋愛対象以外の何かを見ていて、実現させたいのはその何かの方」だと思います。

「恋愛対象と交際したり、親密な関係を築く事以外の何かに執着している状態」であろうと思います。

今回の例えにおいて「恋とは、恋愛(していると思っている対象)を通じて、何かしらの執着を見ている状態」と言う事です。

こうなると恋と恋愛はまるっきり別物です。

お湯を「氷だ!」と言っているのと同じです。

恋愛系の悩みや問題の根源とは、「恋愛対象そのものではなくて、執着している何かを見ている事に気付いていない事」です。

恋愛について問題を解決するには、「恋愛対象と交際するとか復縁する」のではなくて、「恋愛対象を通して何に執着しているのか?…を見付ける事」です。

その「執着している何か」を見付けない限り、何度相手を変えても同じ問題が起こる事でしょう。

見付ける為には、まず何かを執着している事に気付かねばなりません。

そして、「本当に求めているのは恋愛対象そのものではなくて、その執着している何かだ」と認めねばなりません。

気付くのも、認めるのも、問題に苦しんでいる本人しか居ません。

他人がその人に気付かせる事も、認めさせる事も基本的には出来ません。

「基本的には」と断りを入れたのは、他人が意図的であろうがなかろうが、その言動によって気付く切っ掛けになったり、認める切っ掛けになる場合があるからです。

ですが、「気付く切っ掛けになる事」と「気付く事」は全く別の話です。

他人が気付く切っ掛けになり得ても、最終的に気付くか気付かないかは本人にのみ委ねられています。

なので、「どうすれば良いんですか?」と言う問いは、自分自身に意識を向けて問わねばなりません。

現象として他人に問う形になっているとしても、「自分に問う」と言う意識を僅かでも持つ事が必要です。

気付く事は出来ても、認める事をプライドが許さないでしょう。

しかし、そのプライドは同時に自身に対して恋愛をも許していないのです。

恋愛において明らかに心を冷やすような悩みや問題を抱えた時、そんなプライドは自身に必要なのかどうか、自身に問うてみる事です。