エゴ的な幸せのメカニズムを一言で言えば記事の題名の通りになります。
「穴を埋める為には穴が無ければならず、穴が無ければ穴を掘らねばならない。よって、幸せになる為にも不幸でなければならず、不幸でなければ不幸にならねばならない」…これがエゴ的な幸福論です。
理屈は間違っていませんが、「最初から穴を掘らないと言う選択肢」は無いものでしょうか?
穴を埋める行為を幸福としている限り、穴を掘ると言う行為(不幸)が必ず付いて来るのですが、この理屈はエゴの耳には届かないでしょうか?
エゴ的視点からでもそう在る事、つまり「穴を掘っては埋める作業を繰り返す事が私の願望で、好きにやってる事だ」と自覚している状態なら良いのです。
しかし、エゴ視点的にその自覚が無い場合、「私はどうやったら幸せになれるんだ」と幸福を求めてさ迷う事になります。
その幸福を見出す方法は2つ在ります。
1つは「最初から穴を掘らない」と言う選択肢を取る事です。
しかし、この選択肢はエゴが強い状態だとエゴは納得出来ませんし、それ以前にエゴは聞く耳自体を持ちません。
2つ目は、「幸せになる為に敢えて不幸に身を置いていると自覚する事」です。
「穴を埋める為に穴を掘っている最中と自覚する事」です。
もう少し優しい表現に直せば、「幸福に至る為の過程で今の困難な状況が起きていると解釈する事」です。
2つの選択肢を挙げましたが、ここでエゴ的には残念なお知らせがあります。
「エゴには選択肢を選ぶ権限が無い」と言う事です。
どちらの選択肢を選ぶのか、あるいはどちらも選ばずにさ迷うのか、全ては意識が起こす意図に依るものであります。
意識が「最初から穴を掘らないと言う選択肢を選ぶ」と意図したら、エゴはどう頑張っても不幸になれないし、幸福を求めてさ迷う事も出来ません。
逆に意識が「さ迷うと言う選択肢を選ぶ」と意図したら、エゴは「自分が穴を埋める為に穴を掘らされている事」を自覚する事(気付く事)すら出来ません。
おそらくですが、意識は「最初から穴を掘らない」と言う選択肢をそうそう選ばないと思います。
それは新しく買ったTVゲームや本をそのまま放置しておくようなものだからです。
そして、「穴を埋める為に穴を掘っている事を自覚する」と言う選択肢もあまり選ばないでしょう。
○ボタンを押す度に「私はこの面をクリアする過程で今ジャンプしているのだ」とか、一行読む度に「俺はこの本を読了する過程で今この行を読んでいるのだ」と自覚していては、興も冷めましょう。
「さ迷う」と言う選択肢が選ばれている状態とは、エゴ的な感覚では「TVゲームや本に夢中になっている状態」に近いと思います。
そう考えれば、意識(自分)が何故エゴと一体化する事(エゴ視点でものを見ようとする事)を選ぶのか、少しは理解出来るかも知れません。
結局、意識が何を選択しようが「全て意のままに実現している」し、「不幸だろうが幸福だろうが夢中になれる」のだから、結果オーライなのではないでしょうか。