脱スピを語る前に、稲田がスピリチュアルをどんな観念(色)で見ているかを先に述べなければなりません。
稲田のスピリチュアルとは「自分自身の事」です。
この観念で脱スピを解釈すれば、自分自身から脱すると言う事になりますが、それはどうやっても出来ません。
よって、脱スピとは「スピリチュアルな概念の知識を蓄えるのを止める事」と言う前提で話を進めさせて頂きます。
「スピリチュアルな概念の知識を蓄える事」が、自身の無条件の喜びであって、心の軽さに結び付くのであれば、どんどん学んでどんどん知識を蓄える事が正解と思います。
しかし、「幸せになる為に」とか、「苦しみから逃れる為に」と言った条件を課した結果、より不幸や苦しみが増したと感じているのなら、それ以上知識を求めて奔走するのは止めた方が良いと思います。
これでは、「幸せになる為にお金を求める」とか、「苦しみから逃れる為に何かに縋る」のと全く変わりません。
稲田はスピリチュアルな概念を商売に用いる事は否定しませんし、それにお金を支払う事も否定しません。
ただし、スピリチュアルを学んで心が重くて苦しいと感じている場合には、「スピリチュアルに対してお金を使うのは一旦止めた方が良い」と言わざるを得ません。
心が重くて苦しいと言う事は、自分にとって明らかに“何か”を間違えていると言う事です。
まず、その“何か”を自分の中で見付ける必要があります。
これは他者に頼ってどうにかなる性質のものではありません。
それを見付けずに、心が重いまま他者に安くないお金を支払い続ければ、おそらく得られるのは後悔と自己嫌悪のみかと思います。
お金は喜びの対価として支払うべきで、苦しみの対価とすべきではありません。
「自分は明らかに苦しいし、このお金を支払うのも抵抗がある」と認識しているならば、セミナーやセッション等でお金を使うのは止めるべきです。
「自分はスピリチュアルが楽しいし、あの人に会えるならこの位のお金は安い」とするならば、どんどんお金を使って学んでください。
物質的なものであろうが、精神的なものであろうが、興味や関心の対象は外部ではなく常に「自分の心が軽いか重いか」に置いてください。
軽いならば正しい選択をしていますし、重いならば間違った選択をしています。
お金は正しい選択に使い、間違った選択には使うのを止める勇気も必要になりましょう。
心が重い時、必ずその裏には心の軽さが流れています。
その心の軽さを見出すには、心の重さを無視してはいけませんし、外部に求めてもいけません。
頭の声による判断を採用せず、じっと意識の焦点をその重さに当て続ける事です。
前触れもなく心が軽くなると同時に、今まで見えなかった正しい選択を見出す事でしょう。