あらゆる存在が認識によって成り立つならば、「認識を起こす何か」は万物の創造主と言えます。
そして、あらゆる認識対象物はこの創造主が生み出した創造物であります。
「創造主としての自分」と言う立場に立つならば、既に何でもかんでも完全に思い通りです。
自分が認識したものが何であれ、それを生み出したいと意図したからこそ、それは認識対象物として現象化しています。
しかし、「創造物としての自分」…つまりエゴの立場に立てば、全てが思い通りになりません。
なぜなら、エゴは意図や認識の後に創造されるからです。
石ころを認識した時、「創造物としての自分」としての立場から言うなら、「石ころを創造したかった」あるいは「石ころを通して自分の存在を確認したかった」など、様々な表現を用いてその認識が起きた理由を説明(強引なこじつけとも言う)出来ます。
これを「創造物としての自分」の立場から言えば、「こんなどうでも良いものを創った覚えはない」となり、「そんなものより金をくれ」となる事でしょう。
後に創造されたものが、先に起こる何かに影響を与える事はどうやっても出来ません。
仮に、意図や認識より先にエゴが在るならば、現象界は全てエゴの思う通りになるでしょう。
頭の中で「○○したい」と思考すれば、片っ端からその○○が現象化して行くと言う、文字通りの「思考は現実化する」世界を地で行ったに違いありません。
ですが、そうなればエゴをエゴだと認識する手段が何も無くなります。
エゴは「認識を起こす何か」となるので、結局は元の鞘に納まらざるを得ません。
つまり、「エゴとして在りながら思い通りにする事はどうやっても無理」なのです。
思い通りにしたいなら、エゴの立場を手放さなければなりませんし、エゴとして在りたいなら、思い通りに出来る立場を手放さなければなりません。
「創造物としての自分」自体が引き寄せの法則(創造主としての自分)に引き寄せられた創造物である事に気付くと、意識の次元が大きく躍進します。
認識出来ている事に気付くと言う事は、その時「創造物としての自分」を超えた視点に在ると言う事です。
自覚があるにしろ無いにしろ、「創造主としての自分」を垣間見ています。
「創造主としての自分」は「創造物としての自分」との分離を通して、自らを知ります。
分離体である「創造物としての自分」から分離すれば、統合体である「創造主としての自分」に戻るのです。
数学ではマイナス同士を掛けるとプラスになりますが、この記事の理屈で言えば分離同士を掛けると統合になるのです。
「創造物としての自分」が何か騒ぎ出したら、それを認識している自分に気付く事です。
そして、「何故自分自身(…であるはずのもの)に気付く事が出来るのか?」を、認識している方の自分に問う事です。
認識している方の自分に問う方法とは、一切思考に依らないで、ただその「何故なのか?と言う感覚に浸る事」です。
認識されている方の自分に問うと、思考で思考を納得させようとする一人芝居が頭の中で繰り広げられて、一応の妥協点を見付けてそれで終わるでしょう。
もしくは、「認識している方の自分が在るからだ!」と思考で結論を出すだけに留まるでしょう。
「認識している方の自分が在るからだ!」と思考する
…のと、
「認識している方の自分が在るからだ!」と気付く
…のとではまるで違う話です。
「認識している方の自分が在るからだ!」と思考してください
…と言っているのではありません。
「認識している方の自分が在るからだ!」と気付いてください
…と言っているのです。
こちら側からそちら側に思考させる事は出来ても、気付かせる事は出来ません。
気付く事はそちら側自身でしかどうする事も出来ないのです。