本当は何が羨ましいのか | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

他人を見て羨ましいと思うシチュエーションは人それぞれかと思います。

好みのタイプの異性を恋人に持つ人を羨ましいと思う事もあるでしょうし、裕福な暮らしをしている人を羨ましいと思う事もあるでしょう。

人から称賛されるような活躍をしている人を羨ましいと思う事もあるでしょうし、自由奔放に遊び回る子供を羨ましいと思う事もあるでしょう。

時には鳥や動物や虫にさえ、羨ましいと思う事もあるかも知れません。

この羨ましいと思う時、何に対して羨ましいと感じているのでしょうか?

「好みのタイプの異性の恋人が居る事」、「潤沢なお金がある事」、「他人からの称賛が得られる事」、「自由に遊び回れる事」と言う『現象』が羨ましいのでしょうか?

それとも、その現象をもたらすであろう『本質』を感じ取っているのでしょうか?

答えは両方です。

しかし、両方を確実に獲得するには、まず『本質ありき』である事が必要になります。

上に挙げた例で共通する本質は何でしょうか?

彼、彼女らは、それらを手にしている時どういう『感覚』に在るとイメージするでしょうか?

緊張や恐れと言った、筋肉を強張らせるような感覚の中に在るでしょうか?

稲田は、それらの現象の本質にワクワクを観ます。

安心や喜びと言った、筋肉が緩んだ感覚の中に在り、動きは軽やかでありながら強く、表情も柔らかで暖かさに満ちている事でしょう。

何かを見て羨ましいと思う時、恋人やお金が羨ましいのではなく、ワクワクしている様子が羨ましいのです。

仮に全く同じ現象の中に在る人同士で、片方にはワクワクが在り、片方がワクワクが無い状態だとしましょう。

この場合、ワクワクが無い側は、ワクワクの在る側を見て羨ましく思うはずです。

現象(エゴの視点的)では全く五分の条件であっても、本質では明らかな差があるからです。

ところで、エゴは特定の現象に対して「自ら羨ましいと思う事を選べている」でしょうか?

「好みのタイプの異性を恋人に持つ人を見たら羨ましがる事にしよう!」とか決めているのでしょうか?

既に理想の恋人が居たり、今は恋人を欲しない状況で、「好みのタイプの異性を恋人に持つ人を見たら羨ましがる事にしよう!」とエゴの次元で思考したり感情を込めたところで、「本気で羨ましがる事」が出来るでしょうか?

「羨ましいと思わされている」と表現した方が正確ではないですか?

そして、「何故それについて羨ましいと思うのか」、思考で理解出来るでしょうか。

「何だか知らないが羨ましいものは羨ましいのだ!」と言う事であれば、それは真我の願望に直結するものです。

真我の願望は、自身が必ず受け取れる(本質的にも現象的にも実現可能)ものです。

つまり、羨ましいと思える現象や状況は、自身の本当の姿を写しているのです。

エゴの視点から見て羨ましいものは、真我の視点から見れば「当たり前のもの」であって、「ごく身近なもの」です。

その「当たり前のもの」や「ごく身近なもの」を、エゴ眼鏡では「無理なもの」や「遠くのもの」に見えてしまう…と言うだけの事です。

まずは眼鏡を外す(エゴの外に出る)事です。

そして、おかしな眼鏡で見えていた時の癖(観念)を直す事です。

羨ましい対象は本当の自分の姿であり、その羨ましい対象に貴方は成れるのです。