最悪も最善も大した事ありません | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

エゴ視点における最悪も最善も、自身が生きた人生の範囲の中でしかありません。

36年生きた稲田の場合、最悪も最善も36年分の知識データの範囲内に過ぎないと言う事です。

稲田エゴの考え得る最善は「最愛の異性と共に過ごし、好きな事をして不労所得を得ながら、スピリチュアルを以て人を救う事」と以前書きました。

では最悪は何かと言えば、「住む場所すら失って野垂れ死にする事」でしょうか。

はっきり言って、どっちも大した事ではありません。

大した事じゃないものに期待したり不安になったりしながら過ごすよりも、それらを手放して気楽に過ごした方が性に合っていると感じます。

どの道、稲田エゴにはどうする事も出来ません。

川に流される流木は、川が左にカーブしていれば左に流れるしかないし、行く先に滝壺があれば落ちるしかありません。

「右に曲がりたいからアファメーションする!」とか、「滝壺に落ちない為に努力する!」とか言っても無駄であります。

流木は自身が動いていると勘違いしがちですが、実際は川に流されているだけです。

動いているのは川の水の流れであって、流木ではありません。

稲田エゴを流している川の先が「最愛の異性と共に過ごし、好きな事をして不労所得を得ながら、スピリチュアルを以て人を救う事」であるならそうなるしかないでしょうし、「住む場所すら失って野垂れ死にする事」であるならそうなるしかありません。

流木たる稲田エゴに選択の権利はなく、全ては見えない意識と言う川の流れ次第なら、抵抗するよりも流れを楽しむべきでしょう。

最後には流れに同化して流れそのものになれば、左に曲がろうが滝壺に落下しようが、全て自分の中で起きている事です。

こうなれば良いも悪いもありません。

流木の立場からすればカーブが来る度に不安になり、滝壺が来る度に恐れを抱くでしょうが、川の立場からすれば「それが自分の姿・形」なのですから、何処にも不安も恐れも在りません。

川は流木がどうなろうが知った事ではありません。

流木の希望など一切聞かず、己の形のままただ流れるのみです。

しかし、流木を痛め付けようとか、破壊しようという意図もさらさらありません。

黙って流されるが吉です。

流木が考える事など、大した事ではないですから。