観念の扉を開く | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

人生で繰り返されるパターンには、真我のメッセージが含まれております。

その繰り返されるパターンがエゴ視点で見ても好ましいものであるならば、欲求不満による感情や思考も発生しません。

この場合、「真我の意図が実現している事により、結果的にエゴ視点から見ても満足だと判断出来る現象が起きている状態」と言えます。

しかし、エゴ視点から見て好ましくないパターンが繰り返されている時は、「真我の意図を塞ぐ“何か”が在る事」を意味します。

この場合、エゴ視点から見て「さっぱり現象化しない」…あるいは、「せっかく望んだ通りの現象化が起きたのに、すぐダメになるor心からの満足を得られない」…と言った状況が生まれる事でしょう。

本日はこの“何か”を“観念”と呼ぶ事にします。

この観念は、思考や感情や欲求と言ったエゴの次元のさらに奥に在る、「真我の声無き声」です。

思考や感情や欲求はエゴが直ちに音声化してくれますが、この観念はエゴにとっては「何だかよく分からない感覚」としてしか感知出来ません。

その為「気のせい」で済まされる事もしばしばですが、それは「気のせい」どころか真の願望への扉であります。

そして、この扉を開く鍵は意識です。

観念の扉を開くには、以下の二段階の手順を踏む必要があります。

①観念に気付く

②観念を感じ切る

まず①です。

エゴの次元の奥、真我の次元の手前にこの観念は在ります。

意識と言う鍵を観念と言う扉に合わせる為には、意識をエゴの次元に置いたままではいけません。

その鍵が合う扉は、思考の層にも感情の層にも欲求の層にも無く、観念の層に在るからです。

思考、感情、欲求と言った大きな声と厚い層を潜り抜け、それらに比較すればはるかに微細な「何だかよく分からない感覚」…つまり観念にピッタリと意識を向ける必要があります。

そして②です。

後は黙って「その感覚を感じ切る(※)」のです。

「何だかよく分からない感覚」を…です。

※「感情を感じ切る」と言う表現もあるようですが、おそらくこの感情が指しているのは喜怒哀楽と言ったエゴ次元で言う感情ではなくて、観念がもたらす「何だかよくわからない感覚」の事ではないかと稲田は思います。

何とも表現し難いその感覚に、ただ黙って意識を向けたままにしていると、「もういいや」とばかりにスーッ…とモヤが晴れたような瞬間が訪れます。

扉が開いた瞬間です。

一度開いた扉は二度と閉じません。

つまり、同じパターンは二度と繰り返されません。

エゴ視点では同じ現象に見えても、それは真我の視点から見れば全く違う新しい現象です。

真我の視点で新しいと言う事は、エゴの視点でも新鮮な感覚を伴うと言う事です。

かつては嫌悪と不安の対象だったものが、好意とワクワクの対象になるでしょう。

ところで、この鍵を持っている意識とは誰なんでしょうか?

単純に考えると、エゴ・真我・意識と3人の自分が居る事になります。

この意識こそ、エゴ(顕在意識)でも真我(潜在意識)でもない純粋な意識であります。

顕在とか潜在とかの肩書き(?)の付かないこの純粋な意識こそ、宗教では神や仏、スピリチュアルでは大いなる自己やサムシンググレートと呼ぶのでしょう。