アイデンティティ | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

ベタな設定ですが、読んで頂いている貴方が男性ならお金持ち、女性ならとても美しい外見をしていて、それに対して少なからず自信があり、尚且つ幸せで在ると自覚している状態をイメージしてください。

さて、お金持ちの貴男に問いますが、愛する女性に「貴男のお金が目当てだった」と告白されたら、貴男は嬉しいでしょうか?

次に超美人の貴女に問いますが、愛する男性に「君の身体が目当てだった」と告白されたら、貴女は嬉しいでしょうか?

どちらの場合も貴方がそうで在る事に誇りを持ち、幸せで在る証を愛されたわけです。

いわば「貴方が最も認められたいであろう要素のみ」をダイレクトに認められたのです。

嬉しくないはずがありません。

お金持ちの貴男には、次から次へと「貴男のお金が目当て」の女性が近付いて来ます。

そして、超美人の貴方には、次から次へと「貴女の身体が目当て」の男性が近付いて来ます。

幸せなはずです。

人生バラ色なはずです。

…そのはずですが、この状態に本当の幸せが見えないのは何故でしょうか?

お金持ちの貴男に寄って来る女性は、「貴男のお金」に寄って来るのであって、「貴男そのもの」に寄って来ているわけではないと言う事。

超美人の貴女に寄って来る男性は、「貴女の美しい身体」に寄って来るのであって、「貴女そのもの」に寄って来ていているわけではないと言う事。

言い換えるなら、愛されているのは付属物の方であって、本体ではないと言う事です。

お金や身体目当てにされると言う事は、持ち主そっち退けでスマホや財布ばかり褒められているようなものです。

「そのスマホ良いなあ」とか、「その財布素敵!」と褒められたら最初は嬉しいでしょうが、誰かに会う度に持ち主である貴方を無視してスマホや財布ばかり見られたら、貴方は面白くないでしょう。

「スマホや財布じゃなくて俺(私)を見ろよ」と言いたくなるはずです。

人が羨む沢山もお金も、人が溜め息を付くような美しい外見も、本質的にはスマホや財布と何ら変わりません。

世間は本体より付属物が評価される傾向にあります。

何故なら、本体は目に見えませんが、付属物は目に見えるので比較や判断が容易だからです。

そのような中に在っては、周囲に認められる為に「如何に良い付属物を持つか」に意識の焦点が向いてしまいます。

そして自身の幸せも「如何に良い付属物を持つか」に見出し、人が羨むような付属物を得る事にあれこれ努力や苦労を重ねる事でしょう。

しかし、付属物ありきの幸せや承認は、その付属物を失うと同時に崩れ落ちます。

簡単に言えば不幸になると言う事です。

冒頭の例で言うならば、貴男はお金を持っているから、貴女は美しい外見を持っているから幸せで在ったし、他人から価値を認められていたわけです。

それならお金を失った貴男、醜く外見が変わってしまった貴女は一体どうなるのでしょうか?

不幸になり、無価値になるのでしょうか?

付属物にアイデンティティの大半の依存していたなら、その答えはYESです。

お金を持たない貴男や、美しさを失った貴女は不幸で在り、無価値です。

ですが、本体にアンデンティティを持っていた場合、その答えはNOです。

貴男にお金が有ろうが無かろうが、貴女が美しかろうが醜かろうが、付属物に一切影響される事なく幸せで在り、価値があります。

スマホや財布如何で幸せになったり不幸になったり、他人に認められたり認められなかったりするのはおかしい話であるのと同様、どれだけ社会的な価値があろうとも、その付属物で幸不幸や価値を判断するのもおかしい話だと気付かねばなりません。

さて、この見えない本体ですが、貴男がお金を持とうが持つまいが、貴女の外見がどうだろうが、「どうで在ろうと俺(私)は俺(私)だ!」と言える、変わらない“何か”が在るでしょう?

その“何か”に全てを委ねなさい。

付属物に委ねてはなりません。