『性同一性障害』と言う概念があります。
身体の性的特徴と、自身が自覚している性別が一致しない事を言うようで、現在この事に悩まれている方も居らっしゃるようです。
「自分で在る」とは、自身が自覚している事を当然のように宣言し、当然のように振る舞う事です。
身体は男性だが、意識は女性で在ると自覚しているなら、その方は女性で在ります。
「身体が男性」と言う事実は、「男性で在る事」の動かし難い根拠に思えるかも知れません。
しかし、「男性の身体を持つ事」と「男性として在る事」は本来何の関係も無く、それぞれはお互いに干渉しない独立した概念です。
世間のもっともらしい理屈に合わせて「自分で在る事」を抑える必要はありません。
人は「意識の在り方」に沿うようになっております。
「意識の在り方」に対してどんな強固な現象や概念がそれに反対しようとも、それは覆す事は出来ません。
覆す事が出来るのは、現象や概念の方であります。
これは「女(男)性として在れば身体も男(女)性化する」と言う意味ではなく、「女(男)性として在れば周囲も女(男)性として扱う」と言う事です。
そこにはもはや、身体がどうであるかという概念など入り込む余地はありません。
現象と在り方が一致している必要はありません。
そもそも、「現象と在り方は一致しているはずだ」と言う事自体が思い込みです。
現象とは、その人独自の在り方の解釈に過ぎません。
お金持ち全員が幸せで在るとは限りませんが、意識の在り方が幸せで在るならば、お金があろうが無かろうが全ての人がもれなく幸せで在ります。
同様に、男性の身体を持つ人全員が男性で在るとは限りません。
意識の在り方が女性で在るなら、男性の身体であろうが女性の身体であろうが、全ての人がもれなく女性で在ります。
どんなに強固に見える現実も虚像です。
虚像である以上、「意識の在り方」という実像に太刀打ち出来ません。
虚像が先ではなく、実像が先です。
虚像に従うのではなく、虚像に従わせましょう。
ただし、虚像を従わせる唯一の方法は「自分で在る事」のみです。
虚像に「従え!」とアプローチする事は、虚像に媚びてるのと同じです。
全ての人は「自分で在る」までもなく既に自分で在ります。
なので、全員もれなく現実と言う名の虚像を従わせる力の持ち主です。