好かれたいです! | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

「好かれる」と言うのはどういう事でしょうか?

「好かれる」とはどう言った感覚なんでしょうか?

『他人』の中に在るであろう「好きであるという感覚」をどうやったら『自分(エゴ)』が味わえるんでしょうか?

至ってシンプルです。

上の『他人』と『自分』を外してください。

その後には「好きという感覚」だけが残ります。

この「好きという感覚」こそが他人から好かれている感覚、もっとロマンチックに脚色すれば「愛されているという感覚」です。

よくある「愛されたいなら愛しなさい」と言う教えは、「人を愛せば自分も愛してくれるようになりますよ」と解釈しても間違いありません。

ですが、個人的には「人を愛する感覚こそが愛されている感覚ですよ」と言う方がダイレクトに伝わるかと思います。

愛されている=愛しているです。

どんな優しい言葉や態度にも愛されてる気がしないのは何故か?

それは目の前の人を愛してないからです。

逆に愛していれば、雑な言動を見せられても愛されていると感じるでしょう。

好きや愛の他に、尊敬や承認と言った言葉を当て嵌めても同じです。

どんなに丁寧な態度や言葉で接してもらっても、全く敬われてない気がするなら、こちらが目の前の人を敬っていないからです。

どんなに努力して頑張っても、周囲に認められている気がしないなら、こちらが周囲を認めていないからです。

他人から愛されたい、尊敬されたい、認められたいと思う時、それは間違いなくこちらが他人を愛してないし、尊敬してないし、認めていない時です。

ですが本来『自分』も『他人』も在りません。

エゴ視点では「私があの人を愛している」…と言った解釈になってしまいますが、実はその時そこには「愛」とか「好き」だけが在るのです。

「対象を愛しているもの」と解釈してしまうと、対象に愛を求め出してしまいます。

そうではありません。

愛しているその時、好きであるその時こそ、同時に愛されている時であり、好かれている時なのです。

求めるべきは「好かれている」という虚像ではありません。

「好きである」という実像です。