宗教にエゴを見る | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

キリスト教、仏教、ヒンズー教など、世には様々な宗教が存在します。

宗教の数だけ教えの数もあるわけですが、どの宗教のどの教えも真理を指していると思います。

キリスト、ブッダ、クリシュナの3人が一同に会した時、そこでは争いは一切起きないでしょう。

しかしキリスト教徒、仏教徒、ヒンズー教徒が同じ場に居合わせたらどうなるでしょうか?

この3教徒全てが各宗教の教えの真理を感得している場合、やはり争いは起きません。

深いところで証明する必要がない程絶対的に正しいものを共有しているわけですから、表面上の差異は論じるに値しないと思うに違いありません。

逆に「そういう解釈もあるのか」と関心したり、興味を持つかもしれません。

そうなればお互いがお互いの教えを披露したり、教えを請うたり、それはそれは楽しい宗教談義になるでしょう。

では、3教徒全てが各宗教の教えを上辺だけの解釈をしていて、「それが絶対に正しい!」としている場合はどうなるでしょうか。

間違いなく争いが起きます。

そして、この「私の解釈は絶対に正しい!」という考えは、違う宗教のみならず同じ宗教内でも争いをもたらすでしょう。

宗教の門を叩いたはいいが、こういうイザコザを目の当たりにして無神論者になってしまった方も居らっしゃるかもしれません。

前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。

重要なのは「どの宗教が正しいのか」ではありません。

その様を見て「『自分(エゴ)』がどう反応したか」です。

最初にキリスト教を信じて、仏教の教えに触れたとしましょう。

「仏教は間違ってる、やっぱりキリスト教は正しい」とか、「仏教の方が正しい気がする。キリスト教に騙された!」とかいう『自分』の声が頭に響いた時、無意識にその声に乗っかるのではなく、意識的にその声を聞くのです。

この時、『自分』の声と『自分』の声を聞いている何かに分離しているのですが、分離している事に気付く事が肝要です。

外で何が起こっているのか?…は重要ではありません。

内で何が起こっているのか?…の方が重要です。

もっと突っ込めば『自分』の声を聞いている事に気付けるか?…と言う事が要点です。

「『自分』の声を聞いている」だけでは一歩足りません。

そこに「『自分』の声を聞いている事に気付いている」と言う、気付きを加える必要があります。

この気付き癖が付くと、常に気付きという重心に錨を降ろした状態になり、外の現象に振り回される事が少なくなります。

この状態でスピリチュアルでも宗教でも、成功哲学でも何でも構いませんので、もう一度その教えに触れてみてください。

『自分』の声に振り回されていた時とは全く違う理解を得るに違いありません。