水と氷 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

『自分(エゴ)』という概念に対しての執着が強ければ強いほど、世界との分離が進み、そして敵とみなす出来事や人に出会う可能性が高くなります。

エゴは周囲と分離する事によって独自性を高め、周囲を否定する事によってその独自性の優位を得ようとします。

「私が正しくてあなたは間違っている」という態度は、まさにそのエゴの独自性を優位にする事に、あるいは堅持する事に執着した時に出る態度です。

「個性を大切に」…と教わった事があるかも知れませんが、「個性に執着しろ」…とは教わった事はないはずです。

大切にする事と執着する事は似ている様で正反対です。

個性を大切にする人は、自身のみならず他人の個性も大切にします。

だから他人にも自身の個性は大切にされ、例えエゴとエゴの分離の中にあっても周囲との調和が保たれるでしょう。

個性に執着する人は、自身のみを大切にして他人の個性は蔑ろにします。

だから他人にも蔑ろにされ、常に周囲とは敵対する環境の中に身を置く事になるでしょう。

独自の形を保とうとするのは、自身が氷になると言う事です。

氷のままでいるのは非常に不便です。

「私は5cm角の正方形をしているから、この寸法以外の入れ物には入りたくない!」などと主張しても、そんな都合の良い入れ物はそうそう見付かりません。

引き寄せの法則をエゴ視点で捉え、特定の願望に執着する事はまさに上で述べた氷の態度に当て嵌まります。

「何かの器に収まりたい」という願望であるなら、寸足らずだろうが丸型であろうが、自身の元に来た「器の形状に自身が合わせればいい」のです。

エゴによって「自身に器の形状を合わせようとする」から、なかなか願望が実現しないのです。

『自分』という執着を手放して水になるならば、どんな形の器が来ようがぴったりその形に収まれます。

入った器が小さくて、水が溢れるようならば他の器に与える事ができます。

逆に、入った器が大き過ぎて半分しか満たせなかったとしても、他の器から溢れた水を受け取る事ができます。

水であればこのように、他の器とのやり取りが自然に可能となり、どの器も満たせます。

エゴという氷は堅くなり、大きくなる事こそが自身の利益だと思い込みますが、はっきり言ってそれは大損だと言えます。

氷という形を捨て、水になりましょう。

人生という坂道を身を削りながら転がって落ちるより、流れるように降りた方が楽ではないですか?