執着を手放したその後 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

執着を手放した後も、「あれが欲しい」とか「これがしたい」という願望は次々と湧いて来ます。

ただし、現象化には全く拘りません。

願望が実現するかどうかよりも、願望そのものに焦点が当たるので、「願望が在るというだけで満足」といった状態になります。

恋愛で例えますと「好きなあの人が居る。それだけで幸せ」という状態、もっと深まれば「自分が居て、あの人が居る。それだけで幸せ」となるでしょう。

エゴによる執着が強い状態だと、「全然自分の事をわかってくれてない」とか、「もっと自分を大切にして欲しい」などと、ちゃんと目に見える形で実現しているにも関わらず、いつも不満をもらす状態になるでしょう。

前者は「現象化はせずとも意識は幸せで在る」と言えますが、後者は「現象化はしているが意識は不幸で在る」と言えます。

客観的に判断して、貴方は前者と後者が居た場合、どちらに好感を抱くでしょうか?

貴方がどちらかの立場を選ばなければならないとしたら、どちらを選ぶでしょうか?

そして、先行きが明るいと判断出来るのはどちらのタイプの人でしょうか?

まるで「前者です!」と答えて欲しいかのような書き方になってしまいましたが、僕であれば応援したいと思うのは前者です。

どう考えても、前者のような意識を持つ人が放って置かれる訳がないと思います。

誰に放って置かれないのか?

それは必ずしも人とは限りません。

人よりもっと器の大きなもの、宇宙がその人を不幸になんてさせないでしょう。

何故ならその人は、「意識の在り方」という正確な手段によって、宇宙に幸せを注文しているからです。