行動不要論 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

ここで言う行動とは、「“~しなければならない”という思考に基づいた行動」を指します。

「生きる為には呼吸をしなければならない!吸ったら吐いて、吐いたら吸わねばならない!」などと、いちいち思考しながら呼吸している人が居ない様に、あらゆる行動は思考を挟まなくてもスムーズに流れるようになっているのです。

この思考は邪魔者以外の何者でもありませんが、考え方によっては便利な点があります。

一つは「~しなければならない」、「~でなければならない」と言った考えは思考に基づくものですが、あまりにもハッキリとわかるくらい頭の中で響く為、気付くのが容易だと言う事です。

精神世界を探求したり、自身を見つめ直す際には、この思考の性質を大いに利用します。

思考を利用しようというのですから、「思考を利用する“何か”」が居る事になるのですが、それに気付くと“何か”が得られるかも知れません。

もう一つは、思考の声は本心とは正反対の方向を示すという性質です。

思考の声は、極めて高い精度で真逆の方向を指す方位磁針だと思って頂ければ結構です。

思考が「北だ!」と言うなら、その反対の南に向かえば、本心から望む願望に辿り着くというわけです。

逆に思考の声に従い続けると、願望からはどんどん遠ざかるでしょう。

思えば子供の頃は、思考ではなく本心に従って行動していました。

「子供の頃は良かった」とか、「子供の頃に戻りたい」と思うのは、思考による束縛がなく心のまま自由に動き回っていた過去の自分が懐かしく、また羨ましかったのでしょう。

ですが僕は年齢的には大人ですが、元々はその子供だったわけです。

別の何かに変身する事は出来ませんが、元の姿になら戻れます。

元の姿とは、目に見える肉体や精神としての姿ではなく、意識の在り方としての姿です。

大人としての最低限の礼儀・知識・教養・常識を弁えつつ、意識は子供のようで在る。

これが周囲とも自分とも調和する在り方だと思っています。

「~しなければならない」という思考に基づく行動は苦しいし酷くつまらない。

「~したい」という心に基づく行動は楽だしワクワクする。

だから、「如何に楽で在るか」しか考えていない僕は思考ではなく心に従うのです。