『Being』と『Doing』 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

[ ]は『何かをしよう、したい』と思う【自分】がありません。

その根本的な原因である自我が居ない状態にあるので、『何かをしよう、したい』と思いようがないのです。

そう思いようがない為に、あらゆる事に対して悩む事が原理的に不可能である為、至福の状態であると言えます。

[ ]=意識状態が『Being』になっている状態です。

最近すっかりお馴染みになりました、『今に在る』状態と言えましょう。

意識が過去にも未来にもなく、故に後悔する事も結果に拘る事もありません。

一方、【自分】すなわち自我は、とにかく何かをしたがります。

自我=意識状態が『Doing』になっている状態です。

スピ的に表現すれば『今にない』状態と言っていいかと思います。

意識が常に過去か未来にあり、常に後悔したり、目に見える結果に拘ります。

『何かをしよう、したい』と考えれば、必然的に『どうしたらいいだろう?』という疑問が湧いて来るでしょう。

下に今まで読んだ本、ブログやサイトにあった、質問者と回答者について個人的に思った事を書きます。

質問者も回答者も『Doing』な意識状態にある人同士であれば、お互いに違和感なく会話が成立し、一応は納得出来る回答を得られるでしょう。

ですが、質問者が『Doing』、回答者が『Being』である場合、かなりの高確率でチクハグな会話になり、質問者は回答者に示された答えの真意をほとんど理解出来ないと思われます。

『Being』は『Doing』に対して伝わり易い表現に翻訳(?)しようとする事は出来ますが、どうしても『Doing』に伝わる=『Doing』な表現になってしまい、結局は堂堂巡りになるでしょう。

どこかのサイトで『Being』意識にあると思われる方が仰ったのですが、『他人の表現を追うな』とはまさにこの事です。

『Being』を理解するには、こちらも『Being』である必要があります。

「しかし『Doing』から『Being』になりたいと思う事自体が『Doing』なのでは?」

こう思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、なりたいと思う必要もなろうとする必要もありません。

どんなに自我に捉われ、『Doing』でいる時間が長くても、毎日・毎時・毎分必ず『Being』な状態になっている時があります。

それに気付けばいいのです。