その界隈でよく耳にする「シンクロ」という言葉。
どういうわけか「シンクロ」に気づくことは、霊感だという勘違いが横行しているようです。
「直感」「神様のサイン」「シンクロ」
霊感や信仰心の正しい判断を見誤せる落とし穴は、あちらこちらにあります。
そういうことを知っていると、見せかけの言葉遊びに気をつけながら情報を「篩にかける」ようになります。
ここでお伝えしたいのは、スピリチュアルで使われる用語が偽物だということではなく、その「活用方法」が本質からずれて広まっているということです。
その活用方法は「直感だから」「有名な人が言った神様のサインの項目に合致するから」「シンクロに気づいたから」、
だからその情報は「霊感だ」ということではない、ということ。
冷静に物ごとを見つめると、「〇〇だからスピリチュアル」という回路を通った時点で、「考えたもの」「低次なもの」へ、ろ過されていることに気づきます。
では、純度の高い「信仰心とは?」「霊感とは?」「ご神託とは?」「篩をかけるとは?」などについては、これまでお伝えしてきた通りです。
今日は「シンクロ」について、お話したいと思います。
シンクロとは、出会う確率の低いかけ離れた物ごとが、まるで待ち合わせたかのように重なり合い、これが神様の思し召しだと解釈されているようです。
実際にはそういうことは世の中にはよくあって、シンクロ現象を否定するつもりもなく、神様のサインや思し召しの解釈が間違っているわけでもありません。
ただし、シンクロに気づけることが霊感だというのは、残念ながら見せかけです。
霊感については、「考えたもの」「直感」のところで詳しくお伝えしましたが、
私たちには体があるので、その仕組みの弱さに巧みに漬け込む方法の一つに、安易に私たちの自尊心を満たしてくれる都合の良い言葉というのがあります。
例えば「直感」や「シンクロ」という言葉に一つにまとめることで、霊感が未発達な人でも、自分の霊感を使ったお墨付きを与えられたかのように、承認欲求や自尊心を満足させることができます。
霊感にはとてつもないエネルギーを使うのですが、まるでそのエネルギーを効率的に節約しているように見せかけることもできます。
さらに厄介なのは、「シンクロ」という言葉を使うことで、他人の信仰心に土足で踏み荒らすマナー違反が横行していること。
本来は、信仰心に基づいた決定は、100%ご本人の裁量で行わなければならないものですが、「シンクロだから」という善意の皮を押し付ける手口もお見かけします。
「自分で決める」「自己責任」と言いながら、人の心の奥底の睨みを「シンクロ」という言葉のベールでかぶせて、ご本人の純粋な信仰心の判断に干渉してしまっているのです。
ですから、「シンクロで選ぶ」「シンクロだから〇〇」という考え方は、霊感とは別物だということ。
自分に信心があるとおり、他人もまた然りであることを、忘れてはならないのです。
神仏やあの世の方々、神主さんや和尚さん、その関係者の方々とお話すると、「直感」「シンクロ」という言葉は出てきません。
その代わり「そういうことってあるよね。」と言います。
それは、人の信仰心を尊重した最上級のような気がしています。