みなさん、こんにちは。

 

 

前回のつづきです。

 

 

人がこの世を離れるとき、見える世界では色々なお別れ方があります。

 

 

ほとんどの場合は、旅立つ少し前に、ご本人の魂は、この世を離れる時期を正確に感じ取られています。

 

 

そして最期のご挨拶ができるのは、旅立ちの前からその瞬間まで幅があります。

 

 

最期のご挨拶は、体の細胞が完全に止まり、死を迎えてからしか行けないと思いがちです。

 

 

ですが実は、生きている間に魂が自由にご挨拶に行けることが、ときおじさんと、父方のおじいちゃんのときに分かりました。

 

 

ときおじさんのように、突然その瞬間をお迎えする場合は、体の細胞が止まるまでの間に一気に行います。

 

 

この世の人間の感覚では理解しずらいことですが、魂の世界に時間や距離の感覚はありません。

 

 

息を引き取る、細胞が止まるまでの時間が、たとえ一瞬だったとしても、その短い時間は、魂の世界では何十時間もの感覚になります。

 

 

ご挨拶したいと思う全ての人に行くことができ、心残りのないように、たっぷりとご挨拶に伺えるのです。

 

 

ご挨拶したい人がどこにいようと、魂には関係ありません。

 

 

魂のつながりで辿ることができるので、私の一人暮らしのアパートの住所を知らなかったときおじさんが、私の所に来れたのもそれが理由です。

 

 

私のおじいちゃんは、この世の旅立ちの準備として、睡眠時間がとても多くなっていました。

 

 

体の準備が進むと、魂の時間が多くなり、現実でもぼんやりすることが多くなります。

 

 

眠っているときは、魂の時間として自由に動き回れますから、頻繁に私の所に来ては、仕事中の私に話しかけられていました。

 

 

体の準備として眠る時間が多くなれば、魂の時間も多くなりますが、起きたときにその魂の時間でのことを覚えていないことも多いです。

 

 

「夢だったのかな?」と、その魂の記憶の輪郭は曖昧なのですが、起きているときに何かのきっかけで夢を思い出すように、ふと目の前が開けるように「悟る」こともあります。

 

 

体や心が「悟る」と、まるでご自身の最期を予感しているのような言動を、無意識に取ります。

 

 

日常会話に混じるように言葉の端々に、最期のご挨拶や言葉を伝える。

 

 

思い残すことのないように、最期の別れ際に、大切な人のお顔や、懐かしい風景をじっと見つめる。

 

 

魂の時間に、夢の中にあらわれる、などもそうです。

 

 

この予感とは、悲しみ、無念、恐れなどの低いものではなく、何となくふと感じ取り、察して穏やかに体が受け入れられる、魂の悟りのようなものです。

 

 

ときどき、故人とつながるという話を聞くことがありますが、故人の状態によっては、自分の命や、故人の魂を危険にさらすことがあります。

 

 

亡くなってすぐは、未成仏の状態です。

 

 

未成仏の魂は波動が低いので、その低波動が私たちの心身へ悪い影響を及ぼします。

 

 

悪霊のように悪意や害意がなかったとしても、未成仏や低波動というだけで、私たちに障るのです。

 

 

さらに成仏するまでは、一歩間違えば幽霊になって、この世を彷徨わせてしまう危険があります。

 

 

その最たる禁忌は、「この世を振り返る」こと。

 

 

故人の魂は、まだこの世への未練や思いを、完全には昇華しきれていません。

 

 

四十九日の過程で、少しずつ納得し、受け入れて行き、晴れて成仏することができるのです。

 

 

このようなこの世に引っ張られやすい不安定な魂が、この世への心残りや思い、家族のことを思い出すのは、

 

 

家族の悲しみの声に後ろ髪を引かれ、決意がぐらつき、あの世への道のりを進めなくなることになります。

 

 

最悪なのは、故人の思いがゆらいで、この世を振り返ってしまい、この世を彷徨うようになることです。

 

 

故人にとって、これは苦しみ以外の何ものでもありません。

 

 

ですから、あの世の受け入れ態勢が万全なのが確かで、かつ高次元の方々からのお取り次ぎがなければ、自分からつながらないないほうが良いということ。

 

 

故人がどういう状態なのかは、つながってみるまで分からないのです。

 

 

ぱっと体と魂のつながりが切れると、ぴったりの表現ではないのですが、一瞬意識を失ったようになります。

 

 

次に気がづくと、体から完全に離れ、魂の存在になっています。

 

 

そこで状況を整理し、状況を飲み込みます。

 

 

亡くなった事実を受け入れるまでの時間はそれぞれですが、その期間は短い方が良いように思います。

 

 

体が完全に閉じてしまうと、最後のつながりがついえて、魂の存在になります。

 

 

魂になると、煙のようになったり、丸い玉のようになったり、足がなくなったり、透けたりするのかと想像してしまいそうですが、実は生前と変わらない姿を保つことができます。

 

 

服を着てるし、体も透けていない、足もあります。

 

 

生前と変わらない姿でいられるので、亡くなったことに気づけないこともあります。

 

 

自分はここにいるのに、家族や知人は自分の体を囲っていたり、そちらの方に話しかけている。

 

 

誰かに話しかけても、無視される。

 

 

職場に出勤しても、いないように扱われる。

 

 

生前と変わらない暮らしをしばらく送りながら、だんだんと自分はもうこの世にいないことを感じ取り始めます。

 

 

一つでもきっかけがあれば、意識がそちらを向くので、芋づる式に色々な矛盾に気づきはじめます。

 

 

すると「自分は死んだのだ。」と、その事実を受け入れる段階に入ります。

 

 

この世を旅立って最初にすることは、自分が亡くなったことに気づくこと、そして光のほうへ向かうことです。

 

 

この光とは、魂の正しい成仏のための道しるべになります。

 

 

光の見え方や大きさは、人それぞれです。

 

 

あの世はそんなに不親切ではないので、「光を探そう」と思えば、すぐに見つけられるようになっています。

 

 

しかし、たまにですが、見つけるのに時間がかかることがあります。

 

 

それは死の混乱でそれどこではなかったり、ご自身が亡くなったことを受け入れられないとき、そして光へ向かうことを知らない、死後の世界についての認識が浅い場合です。

 

 

生きている間に、宗教やスピリチュアルに興味があれば、そのような情報に触れる機会が多くなります。

 

 

その中で、光に向かえば魂は救われることを知っているので、少々の戸惑いはあっても、光を探し、その光を頼りに進むことができます。

 

 

ですから、どんなに無信心な人も、年をとるにつれて、あの世のことに興味が出てくるようになります。

 

 

あの世を知ることで、誤解や偏見はなくなり、パニックになったり、困ることがないので、それもこの世を旅立つ準備の一つであり、自然なことなのかもしれません。

 

 

あの世を知ることは、宗教に入る、立派なお墓を立てる、お金をかけることではありません。

 

 

自分の信仰心は、誰かに矯正できるものではなく、自分の中で育むもの。

 

 

もし、「死んだら消えてなくなる」と思っていれば、死後に目が覚めた世界が何なのか、自分の状態を正しく認識できなかったり、戸惑うこともあるかもしれません。

 

 

さらに自分が亡くなったことが受け入れられない、大混乱しているときは、自分の世界に閉じこもったり、この世のほうばかりが気になり、自分の状況を正しく認識することができなくなります。

 

 

そのため冷静になって、自分のいる世界をぐるりと見渡すまでに、時間がかかることがあります。

 

 

生前に「あの世はある」と知っていれば、死後に少々の混乱があったとしても、現状への理解が早いです。

 

 

始めは自分が亡くなっていることに気づけなくても、自分はもうこの世にはいないという事実を知るきっかけが必ずあります。

 

 

抜け殻となった自分の肉体を眺めること、どんなに周囲の人に話しかけても、自分の姿が見えていないこと、声が届いていないことなどの手がかりがら、少しずつ「もしかして?」と気がつきます。

 

 

そして「あの世はある」と知っていれば、「ここが死後の世界なのかもしれない。」と、少しずつ魂の世界へ意識を向けることができます。

 

 

ご自身の死を受け入れ、死後の世界へ意識を向けられると、次は「光へ進む」ことです。

 

 

死後すぐの世界には、成仏のための道しるべとなる「光」があります。

 

 

この光の大きさには個人差があり、私の親族もそれぞれでした。

 

 

とても光が大きくて、気づいたときには、もう光の中にいた人もいました。

 

 

「光へ進む」と知っていれば、容易に見つけることができます。

 

 

生前に宗教やスピリチュアルに興味がある人は、その仕組みを知っていたり、話を伝え聞いているので、迷いにくいと思います。

 

 

どんなに若いころに無信心な人でも、年齢が上がるごとに、あの世や宗教に興味を持つようになるのはそのためです。

 

 

魂やあの世についての考えを深め、悟ることは、彷徨うことなくあの世へ向かうための準備なのです。

 

 

死後の混乱が大きく、故人がパニックになってしまうと、ご自身の死を受け入れるのに時間が掛かります。

 

 

泣いて尋ねても、誰にも声が届かないので、さらに自分の世界に閉じこもってしまいます。

 

 

この世への執着が強過ぎる場合も、そうです。

 

 

自分の死を受け入れられないでいると、その事実から目を逸らそうとします。

 

 

実際には、自分がいる魂の世界をぐるりと見渡せば「光」はあるのに、この世の方ばかり見ているとそれが視野に入らないのです。

 

 

未成仏の状態の魂はとても不安定です。

 

 

この世への心残りや執着に苛まれる時間が長いと、次第に魂が変質して未成仏霊になったり、その重たい思いに縛られて、その場所に囚われてしまうこともあります。

 

 

低いものにこだわり続ければ魂の波動も下がり、その低波動がさらに低い存在を引き寄せます。

 

 

低い仲間は仲間を呼び、もっとおっかないものが呼び寄せられ、魔物や魑魅魍魎の世界へ引きずり込まれることもあります。

 

 

未成仏の状態だと、肉体を脱いでいるにも関わらず、お腹が空く、喉が乾く、寒い、痛いなど、肉体の感覚を引きずって、さらに長く苦しむことにもなります。

 

 

自分が亡くなったことに気づけば、体がないから痛くないし、お腹も空かない、喉も乾かない、寒くないと、自然と理解できます。

 

 

死を受け入れられた方でも、肉体を持っていたころの感覚の癖が死後のしばらくは残り、お腹が空いたり、寒さを感じることもありますが、次第にそれもなくなります。

 

 

その間は親族が代わりに、故人の飢えを解消してあげることもあります。

 

 

生前の最後のほうは、機能や食欲が落ちて食べられなくなる方が多いので、死後に「お腹が空いた。」「のどが渇いた。」などと思うことがあります。

 

 

親族の中の誰かが、その思いを魂でキャッチして、「おにぎりが食べたい。」「お茶が飲みたい。」と、まるで自分の感覚かのように感じ取ります。

 

 

弔いに集まる親族の中には、年を重ねた人や感受性の強い人など、あの世の仕組みや魂の状態について、よく知る人が必ずいます。

 

 

そのような方々が、その親族の言動を見聞きすれば、「あぁ、これは故人の思いだな。」と気がついてくれます。

 

 

思い残しや飢えが解消できれば、魂はさらに軽くなり、故人は成仏しやすくなります。

 

 

ですから、「満足するまで召し上がれ。」と、せっせと用意してくれて、声をかけてくれます。

 

 

故人の旅立ちを見送る側は、この「声かけ」も、とても重要なポイントです。

 

 

この声かけによって、故人が死後にパニックになるのを防いだり、故人の魂を落ち着かせたり、「道」に迷わずに済むこともあるからです。

 

 

魂はもともと思念の世界ですから、テレパシーのような心と心で会話ができます。

 

 

ですが、死後すぐの魂は、生きていたころの感覚を頼る癖が残っています。

 

 

声で伝えて、耳で聞き取るものだという思い込みがあると、上手く意思疎通が取れないことがあります。

 

 

そういう場合を踏まえて、死後すぐの故人には、声に出して話しかけてあげたほうが、より親切で伝わりやすいです。

 

 

さらにそこに名前を呼んであげると、故人は「本当に自分のことなんだ」と理解が深まります。

 

 

「おじいちゃん、家に帰ろうね。」「今からおばあちゃんのお葬式だよ。」などと個人名ではなく、いつも呼んでいた続柄や愛称でも大丈夫です。

 

 

息を引き取ったあとや、病院や施設から安置所や葬儀場へ、肉体を移動させるときは特に大事です。

 

 

自分の死を完全に受け入れるまでは、なんだか他人事というか、「本当に自分が死んだの?」と確信を持ちずらい状態なのです。

 

 

なぜなら魂になったからといって、自分の足がなかったり、透けて見えるわけではないからです。

 

 

生前と同じ姿だし、目が覚めたら、何なら瞬きしただけで、「ご臨終です」「ここが死後の世界です」と言われても、にわかに信じがたいという状況なわけです。

 

 

私のイメージとしては、アニメのカオナシのように、状況は分からないけど、信用できる人の声掛けには耳を傾けられる状態です。

 

 

ですから、故人へ向けて声をかけると、混乱の中にある故人もとりあえず、家族の言うことを聞いて付いてきてくれ、魂だけ置き去りになり浮遊霊になる心配が少ないのです。

 

 

その声掛けは、肉体に言っているように見えますが、それを通じて魂へ向けて語りかけていて、状況を説明したり、次の段取りを伝え、混乱したり、彷徨わないようにしてあげています。

 

 

前述の例えでいえば、長く生きてものごとをよく知る人は、それをよく理解しているので、「好きなだけ召し上がれ。」と親戚を通して、故人へ向けて語りかけています。

 

 

はたから見れば、その親戚をおもてなししているように見えますが、実際はその親戚に重なるように故人の魂がいて、親戚を通じておもてなしを受け取っているのです。

 

 

その親戚が普段は好まないものでも、親戚の口を借りて故人が受け取っているので、とても美味しく頂くことができます。

 

 

故人にしてみれば、生前の最後は弱っていて、命を全うするのに必死だったはずなので、それはまるで何日、何週間ぶりのまともなごはんだったりします。

 

 

さらにそれが内臓も健康で、細胞も意識も元気な人の感覚を通して受け取れるので、ただの炊きたての白いごはんだけでも、きらきら、ツヤツヤ、味わい深い、それはそれは大変なご馳走なのです。

 

 

お菓子が嫌いな人が、控え室に用意されているお菓子が無性に食べたくなり、それが普段以上に美味しく感じることもあります。

 

 

ある程度飲み食いすると「満足した。」と故人は離れます。

 

 

すると、「どうしてあんなに食べたかったんだろう?」とご本人も不思議に思うほど、普段の感覚を思い出します。

 

 

何が欲しくなるのかは、故人の生前の状態や好みによります。

 

 

これは特に不思議なことではなくて、葬儀が始まるまではよく起こりえることです。

 

 

ですから、長く生きている人はそれを理解されている方が多いです。

 

 

それが、故人への弔いとなるのがよく分かっているのです。

 

 

病気や水の事故の際は、故人の上着を棺桶に入れる習わしのある地域もあります。

 

 

そうでなくても、生前によく愛用していた上着を入れてあげると、故人を安心させてあげられると思います。

 

 

棺桶に故人が愛用していた上着を入れてあげると、火葬の際に故人の手元へ届きます。

 

 

入れ忘れたときや、あとから夢などで故人からお願いされたときは、お墓に遺骨と一緒に入れてあげます。

 

 

骨壷の横に、畳んで置いてあげるのです。

 

 

他のご事情があるときは、お坊さんなどに相談します。

 

 

お腹が空く、喉が渇く、寒いなどの飢えの感覚がずっと続くことはなく、成仏の過程に乗ってしばらくすると、だんだんと自分で「必要ないな」と思えてきます。

 

 

少し時間が掛かっても、ご本人の意思とは関係なくこの世は流れていき、大体は自分の葬儀ではっきりと悟られています。

 

 

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今日も最後までありがとうございました。