皆さん、こんにちは。
前回のつづきです。
願掛けが叶うか、叶わないかは、神仏がご本人自身を見つめて判断されます。
前回までに、その判断の理由を色々とお伝えしてきました。
神仏は決して、人間のような感情やえり好みで、人を見定めることはありません。
願掛けについては、この世とあの世の事情が膨大すぎて、魂ごとの絡みもあり、色々なパターンがあります。
一言や一例で紹介しきれない部分もたくさんありますが、もう一つ、願掛けが叶わない理由としてよくお見かけする理由があります。
それは、「本人の準備が整っていない」ときです。
将来のどこかで、願いを叶える人生計画を持っていたとしても、
人生計画は、時期なども事細かに決められている場合もあれば、そうではなく大まかな予定として組み込まれている場合もあります。
人生計画をきっちりと隅々まで決めるのも、曖昧にするのも、生前の自分の魂が決めていて、その意味や理由は色々あります。
どちらにしても人の道から逸れたり、本人の心根が歪むことなくという条件付きであることも多いです。
そして、神仏が願掛けする瞬間の本人を見つめると、「本人の準備が整っていない」ということで、願掛けが「保留」になるパターンがあるのです。
願いが叶うまでの期間というのがあって、私たち人間は、もちろん今すぐに叶うことを願っています。
そして自分の望む「叶う時期」に合わなければ、「叶わなかった」と思ってしまいがちです。
ここで認識の誤りや、齟齬が起こります。
例えば、受験合格においても、その年には叶わず、翌年に合格することもあります。
しかし翌年の合格が、人生において非常に重要な出会いや経験や人格へつながり、そこで得られたものが人生を輝かせることもあります。
入学や入社が一年遅れることで、生前にお約束していたソウルメイトとの出会いが叶うこともあります。
そう考えると、未来の見えない人間の夢や希望が、必ずしも魂の人生計画に則っているかというと、そういうわけではないようです。
それらをひっくるめて神仏は、本人にとっての最善につなげる判断を下します。
その年に合格できなくて、泣いて悔やむことが分かっていても、神仏は本人の人生計画と未来まで見定めます。
その年は「叶わなかった」となっても、翌年に合格することで「叶う」場合もあり、それはもちろんその熱意を継続された、ご本人の努力の賜物でもありますが、神仏のお力添えもちゃんと頂いています。
他にも例えば、転居であれば、ご本人に合った物件を見繕うだけでなく、先住者のご事情もあります。
願いを叶えるために先住者を「追い出す」なんてことは、神仏はなさいませんから、先住者にとっても利のある、明るい転居へ向かうように采配を振ります。
本人だけでなく広い範囲で見定め、さらに相手との兼ね合いがあれば、それなりの時間が掛かるということです。
転居については改めて、まとめてお話したいと思います。
願いが叶うのが、本人が「いつ」と思う時期と一致しないことはよくあって、その理由も様々です。
前述のように、時期をずらした方が良いという場合もあしますし、本人の力不足で「保留」となることもあります。
どちらも時間が掛かる願いごととなり、長期的に段階を踏む必要があります。
例えば、「仕事を辞めて、独立したい」という願掛けの場合です。
神仏は、独立することが人生計画や本人のためになるのかだけでなく、離職や独立の時期、本人にその能力や人格が備わっているのかなどの、「叶えるに値するのか」を見定めています。
神仏へ願掛けしていたとしても、実際に行動へ移すときには、地に足着いた「見込み」が非常に重要になります。
今から退職願を出して、「独立する」「開業する」「フリーランスになる」と宣言して、さてどんな届けや手続きがありますか?
場所の目処はついていますか?
開業に必要な費用や、売上が安定するまでの固定費、運転資金はどのくらい掛かる予定ですか?
その間の生活費はありますか?
自分にかかる本来の税金は把握していますか?
お仕事が舞い込むではなく、「確実に」お仕事を頂けるツテや保証はありますか?
銀行員や融資担当者が納得できる、事業計画ができていますか?
税金、薬機法、著作権、借地借家法、消防法など、事業を行うにあたっての、必要な法律の知識はありますか?
それらを踏まえて、社会に丸裸で放り出される覚悟はありますか?
このような独立にあたっての手続き、資金、人脈、経理や法律の知識、そして独立するだけの能力や人格、本人の器なども総合して、願いを叶えるかどうかを判断されています。
「願いが叶うなら勉強する」「神仏のお墨付きがもらえるなら努力する」という話ではないのが分かります。
願掛けが叶うかどうかは、魂の人生計画にあるかないかだけで決められるのではなく、本人にその器や力が身についていなければ、時期が遅れたり、叶わないことだってあります。
願掛けとは、神仏に全てのお膳立てをお願いすることではありません。
神仏にご縁を結んでもらえたり、必要な学びの機会を頂いたとしても、それをモノにできるかどうかは本人次第なのです。
「願掛けは神仏頼み」という姿勢がなくなると、地に足着いた、より現実的な考え方や見え方ができるようになります。
自分の身の丈も分かるので、見栄を張らずに前向きに努力する方法や、やるべきことが見えて来ます。
叶う叶わないに一喜一憂することもなくなり、神仏の采配や思し召し、支援やチャンスのサインにも気づきやすくなります。
するとだんだんと、願掛けを叶えやすくなる「結ぶ願掛け」のコツが見えてきました。
それは、明日からスタートできるくらいの入念な準備や、それほどに気持ちを固めて願掛けをすること。
お願いごとにも色々なものがありますが、ふわっとした理想ではなく、より詳しく神仏へお伝えします。
これは「願掛けしてから資金を貯める」「どこからか舞い込むのを夢見る」「神仏に呼ばれるのを待つ」「神仏にお任せする」よりも遥かに現実的です。
さらに神仏には、この「成功するならやる」「お墨付きがあるならする」という下心も、全てお見通しです。
新たな一歩を踏み出すとき、今までの自分の考え方や常識、知識の中でまかなえないことがあります。
これまでの当たり前が通用しないというか、「今まで知らなかったことが、当たり前にこの世に存在していた」という事実を知り、自身の未熟さを突きつけられます。
神仏からの、願いが叶うチャンスを目の前に頂けたとき、「ちょっと待って!」と力不足や資金不足、準備不足でためらい、その隙にみすみすチャンスを逃したくはないものです。
チャンスがやって来たときに、瞬時にがっちりと掴むために、それまでの入念な準備が鍵になる場面が人生にはたくさんあります。
「入念な」とは、色々なことを想定しておくということ。
これまでお伝えして来た通り、願いが叶う道のりは、自分の想定を超えていることがあります。
道筋を隅々まできっちり決めてしまうよりも、最終的にゴールへたどり着けたら良いと、チャンスに柔軟に対応できる方が叶う確率はさらに高まります。
願いを叶えるチャンスは、ほんの一瞬です。
ためらう暇も、貯金する時間もありません。
その瞬間があるのかも分からないけど、自分の信念を信じて、備えておく。
これもチャンスを掴み、願いを叶えるコツの一つなのかもしれません。
前述のAくん、Bくんは、同じS大学、同じ医師になる夢を持ち、同じお宮さんへ願掛けをしました。
神仏だったら把握しているだろうことも、自分の言葉でお伝えすることに意味があります。
試験の日時や場所、なぜその願いを叶えたいのか、どんな未来につなげようとしているのか、そのためにどんなことを頑張ったのか、願いが叶ったあかつきにはどのように過ごすのか、などをお伝えします。
そのときに心がけるのは、自分の願いごとの譲れない部分と、神様にお任せできる部分を、頭の中で明確にしておくこと。
例えば、お医者さんになるのが目標だったなら、最終的に医師免許の国家試験受験資格を得るための、大学の過程を修了できればいいのです。
そこで「S大学への受験合格」にこだわったとき、前述のBくんのようにS大学では不幸になるという場合だったら、願いが叶うことはないかもしれません。
お願いごとが詳しすぎると、条件が狭まり、叶う確率が下がる可能性が出て来るのです。
そこで少し言い方を工夫してお伝えしてみると、どうでしょうか。
「医師になれるように、S大学を受験する予定です。」とお伝えします。
神仏がBくんを見ると、S大学へ行くと不幸になると分かるので、不合格とされます。
しかし神仏は、T大学へ行けば、大変なことがありながらも無事に修了し、医師の道へつながると判断すれば、T大学をおすすめされます。
すると神仏はまず、BくんがT大学へ興味が湧くようなきっかけを結んでくれます。
今まで何とも思っていなかった、T大学に関する色々な情報を見聞きする機会が増えたり、たまたま付けたテレビで見るなどして、
Bくんの周りにはT大学の情報が集まり、次第に意識の中に「T大学」が引っかかるようになります。
それが何となく前向きに、魅力的に感じ、さらにT大学に関することは、不思議なほどスムーズに進みます。
そうやって神仏のおすすめのメッセージを受け取り、本人に確固たる確信がなくても、願いが叶う方向へ自然と向かわせてもらえます。
もしもBくんが、「どんなことが待ち受けていようとも、絶対にS大学に行きたい。」「S大学でないとならないんだ!」という強い希望があれば、もちろんそれをお伝えすることも可能です。
それによって待ち受ける運命や、ご本人を見定めて、神仏が判断を下されます。
このようにお願いの仕方一つで、叶うか叶わないか、その可能性が変わることもあります。
その要点は、願いが叶う方法、手段、道のりの中で、ご自身の絶対に譲れないことや希望と、神仏にお任せできることを、明確に考えを深めておくこと。
さらにそこに「神仏だったら何でもお見通しでしょう?」「言わなくても分かるでしょう?」と神仏を試すような心根が乗るのは、決して褒められるものではないので、自分の労力を惜しまずに、ひたむきに向き合うことも大切です。
誠実に神仏へ向き合うと、多少たどたどしくなっても、包み隠さずたくさんの想いを伝えたいと思うようになります。
「自分で神仏に伝える」ことは、生きているからこそできる魂の小さな修行であり、非常にありがたい経験なのです。
しかし何度も言いますが、願いを叶えるのは神仏にお任せしきりでないことは、重ねてお伝えしておきます。
今日も最後までありがとうございました。