皆さん、こんにちは。

 

 

願いが叶うか、叶わないか、それは神仏が本人を「見て」判断されます。

 

 

まず前提として、神仏は人間のような欲や感情は持たれません。

 

 

人間のように、誰かに対する嫌悪や嫉妬などもありません。

 

 

謙遜や嘘も言いません。

 

 

それをうっかり忘れて物事を読み捉えると、色々な誤解を招くことになります。

 

 

さて、あるところに同級生のAくんとBくんがいました。

 

 

二人は同じS大学を志望し、医師を目指し、同じお宮さんで合格祈願を受けました。

 

 

S大学の受験結果は、Aくんは合格、Bくんは不合格でした。

 

 

そこで人は、人間の感覚で色々な想像を巡らせ、誤った認識を抱くことがあります。

 

 

Aくんの方がお賽銭が多かったから、Bくんが神様に嫌われていたから、AくんよりもBくんの努力が足りなかったからなど。

 

 

人は、自分基準で物事を考える癖があります。

 

 

欲や感情もあり、好き嫌いや、合う合わない、損得で物事を見る癖もあります。

 

 

さらには足の引っ張り合いや、比較、僻み、人の不幸を喜んだり、批評する、そういう方向に当たり前に意識が向いてしまうこともあります。

 

 

人の不幸や不運や宿命を、全て「魂の業」だと勝手なことばかり言って、他人の「気」を削ぐ光景もよく見られます。

 

 

物事を見定めるとき、人間の邪(よこしま)な気持ちや思い込み、歪んだフィルターが掛かることで、神仏の思し召しの見え方や、その受け止め方が大きく変わってしまうのです。

 

 

何かの不幸や不吉な出来事が起こったとき、人はご自身の欲や感情を前提として、物事を見つめたり、落ち度や理由探しを始めます。

 

 

好き嫌いや不満、因果応報、業、不正、不平等、不道徳など、人間社会にはびこる後ろ暗い部分を、人は無意識に神仏に当てはめて見つめてしまっています。

 

 

するとそこで、誤解や思い違いが発生します。

 

 

神仏は人間のように、気に食わないといじめる、陥れる、祟る、因縁をつけるという発想はありません。

 

 

それなのに人は、「雨が降ったから、神様に拒否された」「願いが叶わなかったから、見放された」などと嘆きます。

 

 

ご自身の未熟さや、この世のことわりを棚に上げて、安易なところで理由を探すから誤解するのです。

 

 

ときに「神様のお墨付き」と聞くことがありますが、私の知る限り神仏が「肯定」「お墨付き」を前面にあらわされることは、あまりありません。

 

 

人間のように、その場限りのおべんちゃらも言いません。

 

 

長い目で見たときに、季節が変わるように状況も変わり、嘘になるからです。

 

 

一義的に物事がよく見えたとしても、人生には波があります。

 

 

その先には良いことも、そうでないことも、必ずあります。

 

 

神仏は未来も見えるので、人知や想像を超えた部分まで見通されています。

 

 

肯定やお墨付きは、その瞬間の、その人間の目線だけで切り取るような判断です。

 

 

その周囲からぐるりと物事を見つめたり、長い目で見定めると、全く違う景色が見えます。

 

 

自分の考えや当たり前、願望、理想を、神仏の世界に重ねないように気を保ちたいものです。

 

 

同じS大学、医師を目指し、同じお宮さんで合格祈願を受けたAくんとBくん。

 

 

S大学の受験結果は、Aくんは合格、Bくんは不合格でした。

 

 

Aくんの合格と、Bくんの不合格には相関性はありません。

 

 

神仏は、Aくん、Bくん、それぞれの魂や、「その人物」を見つめて判断されます。

 

 

Aくんは、S大学に行った方がスムーズな、魂の人生設計を持っていました。

 

 

そのための努力も惜しんでおらず、S大学に到達できる実力も備わっていました。

 

 

Aくんが神仏に特別扱いをしてもらった、試験を魔法で簡単にしてもらう、実際の採点や合否を、神仏に書き換えてもらうなどということは、決してありません。

 

 

AくんがS大学への合格に足りる学力、人格、魂の計画を持っていて、神仏が「叶える」と判断されたので、そのための支援や後押しを頂けたのです。

 

 

その支援というのも人が誤解されやすい部分で、その人の持っている以上の能力や境遇を与えてくれるものではありません。

 

 

叶うために必要な人や情報との出会いを結ぶ、ここぞというときの体調や集中力が万全になるような環境作り、不要なストレスを遠ざけるなどがあります。

 

 

さて、S大学へ不合格だったBくんについても、神仏はBくん自身を見て判断されています。

 

 

Aくんの事情はBくんには関係ありませんから、Aくんと「比較」しないように、切り離して考えてみましょう。

 

 

例えば、神仏には未来がわかっているので、Aくんにとっては良い影響のあるS大学も、Bくんにとっては思わしくないことがあります。

 

 

たとえBくんがS大学に合格できる実力を持っていたとしても、S大学へ入学すると不幸になる、と神仏が判断される場合です。

 

 

BくんがS大学に入学してしまうと、いじめにあったり、大きな挫折や事故に合い、医師になる夢にたどり着けなくなる未来が待っていることがあります。

 

 

魂の人生計画や宿命を阻害する、不要な不幸や、不運が待っていると分かっていれば、神仏は願いを叶えません。

 

 

S大学に行くよりも、T大学の方がBくんに合っているということであれば、そちらへ導かれます。

 

 

またT大学に行くことで、その後の人生に重要な人物と出会う人生計画を持っていれば、相手の魂との約束の達成を優先する運びになります。

 

 

すると、S大学は不合格、T大学へ合格という結果になります。

 

 

Bくん自身から見ると、「願いが叶わなかった」ということになりますが、医師になる道は開かれています。

 

 

願いが叶うまでの「道のり」もまた、このように神仏の判断に委ねられることがあるのです。

 

 

もしかしたら、S大学へ不合格という「挫折」の経験があることで、その経験を将来に活かせたり、天狗にならずに、素直な人格のまま生きて行けるように導かれることもあります。

 

 

また、Bくんの不合格はただ単に、Bくんの努力不足だったという場合もあります。

 

 

どんなに神仏の支援があっても、おみくじが「大吉」でも、模試で合格圏内であっても、それに胡座をかいてしまい、努力をおろそかにしてしまっては、合格することはできません。

 

 

さらにもしかすると、Bくんの魂の人生計画は医師になることではなかったのかもしれません。

 

 

S大学が不合格になったことで、Bくんは次の進路に進むことになります。

 

 

しかし、本人の気持ちとは裏腹に軌道修正された、その先の新たな進路や出会いが、魂の本来の正しい道のりへつながることもあります。

 

 

「願いが叶ったかどうか」は、その短い瞬間を見て判断されがちですが、長い人生を通して見つめたときに、「自分の思いとは裏腹だったけど、今につながる岐路」が、どなたにも思い浮かぶのではないのかなと思います。

 

 

「願いが叶わなかった」部分だけ見ると辛いですが、叶わなかった方の進路の不幸を回避してもらえていたり、迷いながらでも魂の人生計画に乗れているなど、失敗や苦しみの経験も、今のご自身の人格や暮らしに活かされています。

 

 

その「願いが叶わなかった」ことが、自分のためだったと実感できるのはだいぶ後になりますし、「叶った」「叶わなかった」どちらにおいても、一生順風満帆の「神仏からのお墨付き」ではないですよね。

 

 

良いことも、そうでないことも、全部ひっくるめて評価できるのは、人生の最期や、あの世に帰ってからのような気がします。

 

 

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今日も最後までありがとうございました。