皆さん、こんにちは。
このお話の目次はこちらです。
・見えない情報を見極める力
・見えない情報を「篩にかける」大切さ
・篩にかけるのを疎かにすると起こること
・本質から離れる原因
・神仏流の人の信仰心の育み方
魂は高次の情報を私たちの体や心に伝えて、それを私たちが受け取る。
この流れが、霊的な感性の大雑把な仕組みです。
ですから「霊感がない」「神様を見たことがない」という方々も必ず霊感を持っていて、実感のあるなしに関係なく無意識にそれらの恵みを受け取られています。
実感するためには正しい知識や体験、そこからの気づきや悟りが必要で、その経験値が少ないだけなのです。
さらにこの過程には、スピリチュアルへの過剰な期待や風説、流行り、誤った認識からのつまずきやすいポイントがいくつもあります。
その一つに「神仏を見たか」「サインを見つけたか」などの、外からの情報の「解釈」への誤解です。
神仏からのサインを見つけられると、飛び上がるほど嬉しいです。
その心が満たされる感覚や、喜びが癖になります。
するとサインなどの「目に見えるものを見つけること」に終始し、それを見つけたときの「感想」を、霊能力や霊感だと思い込まれることがあります。
人はどなたも、心の中では「特別でありたい」「神仏のお墨付きが欲しい」「神仏に肯定してもらいたい」などの、期待や願望を持ちます。
その抑えられない欲求と、見えるものを優先する心身の癖と、それから「自分だけは大丈夫」という隙が合わさり、頭の中で「考えたもの」に沿った「辻褄合わせ」や「言葉遊び」が始まります。
「感想」や「考えたもの」があたかも霊能力であるかのような、「誤った成功体験」を持ってしまうと、その辻褄合わせが「癖」になります。
実際にはそれがただの「考えたもの」に過ぎなくても、「そうでありたい」「霊感であって欲しい」という期待や願望がそうさせます。
それを自分で自覚し、律することができなければ、「神仏のサインを見つけたから、自分には霊能力がある」という、
「考えたもの」「考えたスピリチュアル」のところで止まってしまいます。
すると、見えない世界を「見極める」「見分ける」力も身に付かなくなります。
「有名な人が言っていた項目だから神様のサインだ」という回路は、ご自身の霊的な感覚を使ったものではないということも分けて考えておかないなりません。
見極め力や見分ける力がないと、「天照様と唱えたから」「龍神様と設定したから」、
「天照さまとつながった」「天照さまとお話した」という少しズレた回路に迷い込みます。
誤った回路を霊感だと思い込もうとしても、実際には見極める力がないので、感じたものが幽霊のささやきであったとしても、
「ご神託が聞こえた」と簡単に舞い上がりる人には、その忠告はもはや届かず、喜んで幽霊を受け入れるようになります。
人は外から忠告されると自分自身を否定されたように感じ、自分を肯定するために反発したり意固地になり、さらに低次の世界にのめり込みます。
「自分次第」とはそういうこと。
自分で自分の感覚を常に疑い、冷静に見極める力をここで身に付けておかなければ、
どんなにスピリチュアルな本を読み漁っても、色々な講座を渡り歩いても、誰かにお墨付きをもらえても、何回神社仏閣に通っても、いつまで経っても本質にたどり着けないままなのです。
霊能力の回路を使うよりも、「考えたもの」の回路を使う方がはるかに簡単で、気力体力を使わなくていいのでとても楽です。
しかし霊的に篩(ふるい)にかけていない情報は、高次の情報でないことも多いです。
「篩にかける」とは、「境内で感じたものだから神仏からだ。」「オラクルカードを使ったから神様のご神託だ。」という見分け方ではありません。
実際にはあまり公にされていませんが、境内の中であっても排除できない低級なものもありますし、神仏のいない神社仏閣もあります。
異なる神仏がいらっしゃることもあります。
境内であれば全て安心安全な、正確な、高波動な情報とは限らないのです。
篩が「ざる」では意味はなく、本物に触れながら見極め力を鍛え、篩の目を細かくすることで、だんだんと「わかる」精度がアップします。
「わかる」「見極め力」を鍛えるためには、正しい知識と、本物の経験の積み重ねが必要です。
「わかる回路」を使えるようになっておけば、神仏のいない幽霊の巣窟に遭遇したときに、たとえ視えなくても、その霊的な感覚で危険を感知しすぐに対応できます。
日頃から霊的な回路の方を鍛えていると、咄嗟のときに自分の感性を信じることができるので、不要な不幸を回避したり、不測の事態を乗り越えられます。
ここまでこの回路の違いをこれだけ口を酸っぱくお伝えするのは、ここで簡単な方に流される人が多いから。
神仏のサインなどの、目に見える情報を否定するものではないのです。
これらは二つの解釈の違いを混同する未熟さと、さらにそこに、「見える」方を優先しようとする人間の「思い癖」が引き起こします。
「わかる」「霊能力」の回路と、「考えたもの」の回路は、似て悲なるもの。
全く違うことが行われているにも関わらず、ここを甘く見ていると、本質を見つめることができなくなってしまいます。
このブログでは、「見えない」「聞こえない」「感じない」「できない」「私なんて」などと、
実際の感覚がそうであったとしても、たとえそれが謙遜であったとしても「言わないほうがいいですよ」とお伝えしています。
だからといって「神様を見た」「仏様がいらっしゃった」「言葉を聞いた」と、嘘をつくのをおすすめしているわけではありません。
等身大の自分を否定する言霊や波動は、のちにご自身を苦しめることになります。
ご自身の信仰心は、ご自身の中で育むもの。
わざわざ宣言したり、自慢したり、見栄を張る必要はないのです。
ですが私たちはこの世でご自身の信仰心を否定されたり、傷つけられる経験を通して「信仰心を守る」方法を得てきました。
それらはこの世を生きる上での「建前」であって、ご自身の中の霊性を育む上では必要ないものです。
信仰心を育む過程では、なるべく謙遜する場を避ける、信仰心を表現できる場所や人を選ぶようにすると、もっともっとご自身やご自身の魂や信仰心の大切さを知るようになります。
あるお寺さんへお参りすると、修学旅行の学生さんらしき男女のグループが、柏手(かしわで)を打ってお参りしていました。
そこに参拝で居合わせる周りの大人たちは「あっ」と気づきますが、「まだ知らないのね」と彼らを見守っていました。
成長する過程で「知るタイミング」があるのを、その過程を乗り越えてきた大人たちは知っているのです。
知らない、うっかりくらいで、仏様方に咎められることはありません。
小さな失敗や無知なことで目くじらを立てたり、すぐに揚げ足取りをするような、人間社会のざらつきはあちらの世界にはないのです。
時期が来れば、この世のことわりをぽんと心に投げかけられ、私たちに考える余地が存分に与えられる、これが「仏様の教え」です。
変わらぬほほえみを浮かべた大きな仏様方の波動は、さらに色濃く充満し、そのまろやかな波動は境内で過ごしていた私たちにも伝わって、ほんわかと心が温まる癒しの空間でした。
魂の成長の過程とは、こういうものなのかもしれません。
神仏を前にして、自分を大きく見せようとか、あせる必要はありません。
スピリチュアルの世界に年齢も関係ありません。
「もっと早く、若くに知りたかった。」と今なら思うことも、きっと自分自身が本当の意味で理解できたり、受け入れられるベストなタイミングでその機会を頂いていて、
それは他人の杓子で測られたり、口出しされたり、決められるものではないのです。
自分で気づいて改める、反省する、その過程があってこそ、魂の正しい方向へ進んでいけると、仏様方に見せて頂いたような気がします。
今日も最後までありがとうございました。