皆さん、こんにちは。

 

 

このブログの目次はこちらです。

 

 

・翳りについて

 

 

・同調について

 

 

・同調しない

 

 

・「意識の反応」にも気をつけること

 

 

 

 

私の知人に、感受性の高い女性がいました。

 

 

彼女は洗礼を受けていて、週末は教会へ通っていました。

 

 

信仰心を育てる土壌環境は、若いころからしっかり持っていました。

 

 

それでも彼女のアンテナは幽霊の方を拾いやすかったようで、時々その話を聞いていました。

 

 

特に、自宅で怖い思いをすることが多かったようで、その場所は教会と火葬場のすぐ近くでした。

 

 

きっと、その場所は「霊の通り道」になっていたのだと思います。

 

 

「霊の通り道」に、はっきりとした法則はありません。

 

 

海や川の近くや、いわくのある場所、むかし事件や事故があったところなどにも、霊の通り道ができることもあります。

 

 

全てにあるわけではありませんし、土地自体のパワーも一定ではないので、そのような法則なく「ある」ところもあります。

 

 

私は海のそばに住んでいたので、夜になると「海から上がってくるもの」が、家の周りを徘徊するのを感じていて、子どものころから毎晩怯えながら眠っていました。

 

 

全ての電気を消して真っ暗にすると、その「怖いもの」が部屋に入ってきたり、体に近づいたり、触られたり、いたずらされるという確信があったので、私の部屋だけは豆電球をつけて寝ていました。

 

 

カーテンの脇から覗こうとするしつこい幽霊もいたので、遮光カーテンもつけてもらっていました。

 

 

布団を頭からかぶって、外の様子を霊的な感覚で観察したり、怯えながら眠るという生活がつづきました。

 

 

そして神仏や和尚さん、ご先祖様方、私の両親の力をお借りして、全ての霊障を解決することになります。

 

 

ある明け方、夢の中に星になった二人の祖父が現れて、「もう大丈夫」と知らされました。

 

 

その晩から、カーテンを開けて眠れるようになりました。

 

 

朝日を浴びながら目覚めるというのは、当たり前のように思えますが、夜に怯えていた私にとってはなんとも贅沢な生活です。

 

 

神社仏閣や教会などは、魂を助けてくれる場所だと多くの存在が認識しています。

 

 

ですから、「日が陰る」と色々なものが集まります。

 

 

「日が陰る」とは祖母たちと使う言葉で、日の出や日没とは違う、霊的な光やパワーの変化を指します。

 

 

その「日」とは、一定ではなく、常に変化しています。

 

 

神社仏閣や神仏のいる山だったら、5〜15時くらいが目安で、15時までには下山を完了するようにしています。

 

 

この「時間」も、あくまで目安。

 

 

神仏の性質や、色々な事情で変わります。

 

 

土地自体にパワーのある山でも、陰ります。

 

 

昼間でも、陰る場所は点在します。

 

 

大晦日は人出に混ざって色々なものがいますが、日付けが変わりお正月になった境内は大丈夫という場合もあります。

 

 

この「陰る」も霊的な感覚で、鍛錬を積み重ねて鍛えて「わかる」ようになります。

 

 

さて話を戻しまして、私たちにも、肩が重い、お祓いしたい、そんなときに思いつく場所があるはずです。

 

 

それは必ずしも、お家の宗教とは限りません。

 

 

そのような、個人個人それぞれの「心の拠り所」が、魂の信仰心なのです。

 

 

助けを求める魂やさまよう魂、未成仏霊が集まる場所には、

 

 

その弱い魂をもてあそぼうとする、もっと強力な存在が引き寄せられることもあります。

 

 

あの世には色々な世界があり、神仏の光が怖くないというあやかしや魔物など、魑魅魍魎の存在もあります。

 

 

悪意を持たない幽霊もいますが、未成仏というだけで波動低い存在であり、生きている私たちには「障り」があります。

 

 

全ての現象症状が霊障ではありませんが、心や体の病気になったり、最悪命を取られることもあります。

 

 

スピリチュアルというと、神々(こうごう)しい世界ばかりを想像されますが、私たち人間にとって都合の良い世界ばかりではないのです。

 

 

あるときから知人は、幽霊や霊障の話を一切しなくなりました。

 

 

脈略もなく「私、もう幽霊の話はしないから。」と宣言された日のことを、今でも覚えています。

 

 

そのように思える見えない支援やお導きがあり、彼女の中で霊的な成長があったのだと思います。

 

 

恐ろしい低次な世界は存在しますが、「女の人が立ってた」「金縛りにあった」と口にすることで、本人もその低波動な言霊を発していることになります。

 

 

それは見えたことを自分の中で認識する作業、つまり「同調」を行なっています。

 

 

恐らく見えたときも「え?」「!!」などと意識を反応させて、その同調作業を無意識に行なっていたのだと思います。

 

 

実は、見えても、声を掛けられても、肩を叩かれても、「気づかないふり」「無視」をするのには、大きな意味と効果があります。

 

 

感受性の高い人は、「思いをはせる」を無意識になさっていることも多いです。

 

 

「可哀想」「辛かったろうな」「苦しかっただろうな」などと、

 

 

自然と「思い」に寄り添ったり、同情したり、その「時代」に意識を合わせることが出来てしまえるのです。

 

 

これらも同調の一つです。

 

 

感受性の高い人は訓練していなくても、生まれながらに“それ”が自然にできます。

 

 

なので特定の職業や人間関係では、とても重宝されます。

 

 

一方で「同調」には、とても多くのエネルギーを使います。

 

 

コントロールできなければ、他の波長へ常に合わせ続けることになり、とても疲れます。

 

 

そして取り憑かれやすかったり、気持ちが不安定になりやすい、周りに振り回されやすい、健やかな人生を阻害されるなど、その代償も大きいです。

 

 

「同調」も、ものごとを知り、コントロールを覚える必要があります。

 

 

ちょっかいをかけられても、反応しなかったり、無視しておけば、

 

 

通りすがりの霊であれば、「つまらない」とあっさりどこかへ行ってしまいます。

 

 

面白がったり、幽霊が見えたことを喜んだり、過剰に怯えるなどと反応してあげると、

 

 

幽霊の方も面白がって、さらにいたずらを助長させることになります。

 

 

ですからどんなに視界の隅に、一人暮らしにいるはずのない誰かの足が見えても、寝ている暗がりに長い髪が見えても、覗き込まれようとも、絶対に「視線を向けない」こと。

 

 

見えていなくても、怖いもの見たさや、好奇心、興味本位、確認したくなる気持ちなど、

 

 

このような「意識の反応」をぐっと我慢する、強い意志を持って「自分を律する」ことが大切です。

 

 

「見えなかったら良いのでは?」と思われるかもしれませんが、

 

 

霊感がない(実際には霊感は皆さんありますが未発達なだけ)から、「視線を向けただけで、実際には見えていない」というのはあまり関係ありません。

 

 

実は霊感が未熟でも、実際に幽霊のいる方向へ「ふり向いた」という事実は、幽霊には「気づいてもらえた」と誤って喜ばせます。

 

 

それはこちらが意識を反応さたり、思いをはせるなどして、同調してくれているからです。

 

 

同調された幽霊は、「気づいてくれたから、助けてくれるはず」と勝手に認識します。

 

 

「助けてくれるはず」から勝手な妄想が膨らんで、「受け入れられた」「取り憑く許可がもらえた」「体を貸してもらえる」「その肉体の人生に成り代われる」などと、さらに誤解や過剰な期待をさせてしまうこともあります。

 

 

実際に「幽霊が見えるかどうか」は、幽霊には関係ないことも多く、こちらの理屈や法律は通りません。

 

 

そのような不条理がまかり通る次元や存在もあるので、幽霊のちょっかいやいたずらには「意識を反応させない」「無視」をし、自ら「思いをはせない」ようにもします。

 

 

もちろん心霊スポットに行ったり、心霊番組を見るのも、低波動に同調する行いです。

 

 

皆さんも暗い夜道を歩くときや、心霊番組を見るときに、悪意を持った暗闇が、自分の背中に迫る感覚を感じたことがあるはずです。

 

 

背筋がぞくりとしたり、後ろを振り向いてはいけないような気がする、怖い、やばい、ゾッとする、そのような鬼気迫る感覚です。

 

 

それは自分の魂が、私たちにその身の危険を教えてくれていているんです。

 

 

「そういえば、ここで昔こんな事件があったらしい。可哀想だな」「痛かっただろう」「苦しいだろう」などと思いをはせる、同情する、「その時代を想像する」ことも、

 

 

感受性の高い方が無意識に行いがちな、未熟で、危険な同調です。

 

 

魂の危険信号を感じたら、「目を凝らして見たい」「振り向きたい」気持ちを抑えて逃げる、

 

 

「思いをはせる」を自分で気づいてやめるようにするなど、自分自身で自分の心を律し、身を守る術を身につけて行きましょう。

 

 

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今日も最後までありがとうございました。