『上野殿御返事(報南条抄)』御書解説 | 新興宗教創価学会には、三宝が ひとつもありません。

新興宗教創価学会には、三宝が ひとつもありません。

創価学会は、元々は末法の御本仏日蓮大聖人の在家の信者の団体でした。
平成3年に日蓮正宗から教義逸脱等により破門され、今では 仏教的・平和主義的・人道主義的等の雰囲気を持つ 政治的な営利団体へと変貌しました。
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御書解説 ―背景と大意


上野殿御返事(御書1528頁)

(別名『報南条抄』)


一、御述作の背景


 本抄は、上野殿(南条時光)に与えられた数多い御消息中の一書で、弘安三年 十二月二十七日、聖寿五十九歳の時、身延において お認めになられました。御真蹟は伝わっていませんが、日興上人の写本が 総本山大石寺に所蔵されています。


対告衆


 本抄を賜った 弘安三年前後の頃は、上野殿にとっては 試練の年でした。それは、前年の弘安二年に 熱原の法難が起こり、さらに この年の 九月五日、弟の 七郎五郎殿が亡くなったことです。上野殿等、家族の悲嘆は大きく、また七郎五郎は 死去の八十日ほど前に、上野殿に連れられて身延に詣でて、その折、面会あそばされており、五郎の成長を楽しみにされていた 大聖人様の落胆も、大きなものであったと拝されます。

 このことは、弘安三年の秋から、弘安五年の正月まで、故五郎のことに触れられた御消息が、八通も現存していることが 物語っておりましょう。


 上野殿の 健気な信仰の姿には、このような悲しみと、また本抄中にも仰せられるように、幕府より 大きな年貢を課せられ、多くの公事に苦しみながらの 窮乏生活が裏にあったことを忘れてはならないのです。


背景


 建治の末頃から、全国的に猛威をふるった 飢饉と疫病、さらに 蒙古の再度の来襲の恐れに、日本国中が まさに 内憂外患の状況を呈していたのが、本抄御著述の 弘安三年でした。加えて 十一月十四日には 鎌倉の八幡宮が炎上しています。

 この消失の理由を大聖人様は

『諌暁八幡抄』(御書153頁)に、


「国中が こぞって法華経を誹謗する故に、神は正法の法味を味わうことができずに、宝殿を焼いて 天に上ったのである(趣意)」


と仰せられています。


 また 本抄御執筆の前年、弘安二年 十月には あの熱原法難が起こり、神四郎等の三烈士が殉教したのをはじめ、多数の農民達が 不惜身命の信心をもって 信仰を貫き通しました。


 この法難こそが 大聖人様が御本懐を成就あそばされる機縁となったのです。


 この熱原の法難に際して、上野殿は 弱冠二十歳の青年でしたが、身命を賭して 信徒達をかばい、日興上人のもと 懸命に闘いました。それは弘安二年 十一月十六日にお認めの

『竜門御書』に、


「願はくは 我が弟子等、大願ををこせ。去年去々年の疫病に死にし人々の かずにも入らず、又 当時 蒙古のせ(攻)めに まぬかるべしとも みへず。とにかくに 死は一定なり。(中略)をなじくは かり(仮)にも 法華経のゆへに命をすてよ。つゆ(露)を大海にあつらへ、ちり(塵)を大地にうづむとをもへ」(御書1428頁)


と、法華経の故に 命を捨てることの尊さを 御指南された後、追伸に、


「此は あつわら(熱原)の事の ありがたさに申す御返事なり」(同頁)


と、熱原の法難の 尊い意義を讃歎され、またその折の 上野殿の活躍を称賛されて、「上野賢人」の号を贈られていることからも 明らかなのです。


 大聖人様が、熱原農民の 身命を惜しまぬ信仰を、凡慮を絶する 大慈悲をもって 受け止められたことは 申すまでもありませんが、上野殿についても、このように 熱原法難における法華経の行者としての 信仰の純粋さ、強盛さを称賛された御手紙が拝されるのです。


二、本抄の大意


 はじめに、銭一貫文の御供養に対する御礼が述べられています。


 そして、上野殿が 強盛な信心を貫かれる方だからこそ、この法門を述べるのであり、誤解せぬようにと断られて、供養の功徳の甚大であることを説かれています。


 すなわち、易々と仏に成る方法とは、時に応じて、その物を 必要とする人に 施すことであるとされ、


「仏になりやすき事は 別のやう候はず。旱魃にかわけるものに 水をあたへ、寒氷に こごへたるものに 火をあたふるがごとし。又、二つなき物を 人にあたへ、命のたゆるに 人の施にあふがごとし」


と説かれます。


 これは 我が身にとって 大切なものであればある程、またその施により 他者の命が救われるほどの 難儀の時であればあるほど、その施しの功徳が大きいことを説かれたものです。


 そして 飢饉の時、国中の万民に わずかに残った穀物を施して 国の危機を救った金色王の話や、わずか 五升の米しかない時、釈尊、迦葉、舎利弗、阿難、羅睺羅の五人に それを供養し、その功徳で 祇園精舎を建立したと伝えられる 須達長者の故事等を引かれて、供養の功徳のすぐれていることを説かれます。


 次に、上野殿の信仰につき、猿と人、月と餅の譬をもって、直ちに法華経の行者とはいえないが、ほぼ 法華経の行者に似ているとされ、その強盛な信心を褒められています。


 そして、


「わづかの小郷に をほくの公事せめに あてられて、わが身は のるべき馬なし、妻子は ひきかゝるべき衣なし」


と、上野殿の生活を思いやられ、我が身がそのような 窮乏生活の中にあるのにもかかわらず、雪深く 食の乏しい 身延の山中の 大聖人様を思いやり、銭一貫文を御供養されたことに、深い感謝を述べられています。


 そして その志は、貧女が 夫婦で一枚の着物を着ていたのを、乞食の行者に与え、利吒が 食器の中にある稗を、辟支仏に供養した志に似て、誠に尊いことであると結ばれておられます。


拝読のポイント


 本抄には、全編にわたって 法華経の行者を供養することの 尊い意義を御指南されていますが、同時に、不惜身命の信心を 勧奨されたものと拝されます。

 前掲の『竜門御書』の、


 「をなじくはかり(仮)にも 法華経のゆへに命をすてよ」


との御指南は 上野殿の命に深く刻まれ、この御指南の故に、何事にも動じない 強盛な信心を一生涯貫くことができたのです。


 弘安三年 七月二日の『上野殿御返事』には、


「さては かうぬし(神主)等が事、いまゝで かゝ(抱)へをかせ給ひて候事 ありがたくをぼへ候」(御書1479頁)


とあり、熱原法難の折、大聖人様に帰依して 住所を追われたと見られる 神主の一家の面倒を見、それを 快く思わぬ官憲から 厳しく監視される中、「わづかの小郷におほくの公事せめにあてられ」という 窮乏の生活を強いられていたのです。


 そのような熱原法難の余波から、厳しい生活状態にあった中で、上野殿は 大聖人様から賜る折に触れての 大慈悲の御指南に信順し、正直な素直な心で、不惜身命の信心を貫き、また片時も 大聖人様への外護を忘れることなく、御供養を続けられたのです。


 本抄の「猿と人」、「月と餅」の譬は、一見厳しいように見えますが、そこには 上野殿が大聖人様を 仏たる絶対の大師匠と仰ぎ、大聖人様は上野殿を 正法の法灯を外護すべき 大檀越と認められ、厳しく薫育なされたことが 拝されるのであり、所謂、師弟相対の信心があったればこその御指南と申せましょう。


 この厳格なる 師弟相対の信心を貫くところにこそ、即身成仏の大果報があることは いうまでもありません。



        ………φ(._.)     南無妙法蓮華経。