御在世の信徒に学ぶ
南条時光殿 ②
前回に引き続き、南条時光殿のお姿から 信心の在り方を学んでいきたいと思います。
不退の信心
日蓮大聖人様が 時光殿の父・兵衛七郎殿の墓に詣でられた文永二(一二六五)年より 身延に入山されるまでの九年間、南条家との音信は 伝承されていません。大聖人様が佐渡配流に処されるなど 門下全体に種々の法難が競い起こった時期であり、南条家としても 富士という離れた地であったことや、一家の柱を失ったことによる生活への影響もあったことでしょう。
しかし南条家の人々は 決して退転することなく信心を持続され、文永十一(一二七四)年 五月に 大聖人様が身延へ入山されたことを伝え聞くと 早速、七月には 種々の御供養を届けられました。
時光殿は 十六歳に成長され、御供養を持参されたその姿を御覧になった 大聖人様はこの時の様子を、
「かまくらにて かりそめの御事とこそ をもひまいらせ候ひしに、をもひわすれさせ給はざりける事 申すばかりなし。(中略)をん(御)か(遺)みに御をわかして とゞめをかれけるか。姿たがはせ給はぬに、御心さえに似られける事 いうばかりなし」
(御書 741㌻)
と仰せられ、南条家の信仰はもちろんのこと、故兵衛七郎殿と 心までもよく似た 時光殿の成長した姿を喜ばれています。
これ以後、どのような状況におかれても 信仰を違えることなく 大聖人様のもとに 折にふれて御供養をお届けしたことは、南条家が賜わった五十余通にも及ぶ御書が物語っており、
「水のごとくと申すは いつも退せず信ずるなり。此はいかなる時も 常は退せず(と)訪わせ給へば、水のごとく信ぜさせ給へるか」
(同 一二〇六㌻)
と称讃された、水の流れのごとき 不退の信心を生涯貫かれたのです。
日興上人との出会い
翌文永十二(一二七五)年正月には
『春之祝い御書』に、
「此の御房は 正月の内につかはして、御はかにて 自我偈一巻よませんとをもひてまいらせ候」
(同 758㌻)
と示されるように、大聖人様の命により 日興上人が 上野の南条家を訪れ、故兵衛七郎殿の墓参をいたされました。
大聖人様が直接御下向されなかったのは、富士方面が 北条得宗家であり 極楽寺良観の支持者でもある 後家尼(北条時宗の母)の所領であったため、高橋家や南条家に迷惑をかけてはいけないとの 御配慮があったと拝されます。
また弟子の中で 日興上人を遣わされたことには、日興上人が 縁戚などをたどって、富士・駿河一帯の 折伏弘教をされていたことをはじめとして 様々な理由が考えられますが、これを契機として 時光殿は日興上人の御教導に浴することとなり、さらには後の大石寺開創へと繋がる 不思議の因縁が感じられます。
弘教の展開と熱原法難
時光殿と出会われた頃、日興上人は 甲斐・駿河・伊豆方面への弘教を展開されていました。時光殿も 日興上人の指揮のもと、自らの所領を拠点として 大聖人様の教えを弘め、親戚の新田家・松野家等 多くの人々を入信へと導きました。
日興上人の弘教の勢いは止まることを知らず、富士地方では 実相寺・四十九院を中心として 熱原の天台宗寺院滝泉寺にも教化が及び、日秀・日弁・日禅等の 寺家僧が帰伏改衣し、さらに多くの信徒たちも 改宗して法華衆となっていったのです。
しかし、滝泉寺院主代の行智は この状況を快しとせず、平左衛門尉 頼綱を後ろ盾に 様々な迫害を加え始めました。この法難は弘安年間に入って激しさを増し、ついに弘安二(一二七九)年 九月二十一日、武士たちを集めて 日秀の田の稲刈りに集まっていた法華講衆を襲い、農民二十名は その場で取り押さえられ 政所へ拘留された後、すぐに鎌倉へと押送されました。
私邸の庭で尋問を行った平左衛門尉は 事件の真相には触れず、法華の題目を捨てよと威嚇しましたが、農民たちは怯むことなく唱題を続け、これに激怒した平左衛門尉は、拷問を加えた後、中心者であった 神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を 無実のうちに斬首に処したのです。
この法難の様相と 農民たちの不惜身命の姿を鑑みられた大聖人様は、今こそ 本懐成就の時と感じられ、下種仏法の究竟の法体として 本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたのです。
僧俗外護への尽力
このように 大御本尊建立の契機となった 熱原法難に際して 時光殿は、日興上人の指揮のもと法華講衆の支柱的存在として、捕えられる可能性のある信徒を 自邸にかくまい、日秀・日弁等を 下総(千葉県)の富木常忍のもとに送り届けるなどする一方、信徒に対する 不法処分の取り消しを訴え、逮捕された者の家族を 援助・激励するなど 身命を惜しまぬ御奉公を尽くされました。
大聖人様は、その正法護持の御功績を讃えられ、若き二十一歳の時光殿に対して「上野の賢人殿」との称号と共に、
「此は熱原の事のありがたさに申す御返事なり」(同 一四二八㌻)
と仰せになられています。
しかし、地頭という職にありながら 身を挺して法華衆を支援した時光殿に対して、権力者と結んだ謗法者たちは、その後も長く 不当に多い租税や 夫役を課すなどの 経済的な圧迫を続け、地頭として乗るべき馬もなく、妻子のための着物一枚に困窮するほどの様相でした。
さらには弘安三(一二八〇)年 九月、弟・七郎五郎殿の急逝も重なり、南条家はたいへんな苦境に立たされていましたが、大聖人様と日興上人の御教示をひたすらに拝する 時光殿の信心はいよいよ堅固なものとなり、大聖人様への御供養を欠かすことなく行われたのです。
大聖人様は、弘安三年 十二月の
『上野殿御返事』に、
「かゝる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食とも乏しかるらんと おもひやらせ給ひて、ぜに一貫 をくらせ給へるは、貧女が(め)夫二人して 一つの衣をきたりしを 乞食にあたへ、利吒が 合子の中なりし稗を 辟支仏にあたへたりしがごとし。たうとし、たうとし」
(同 一五二九㌻)
と、南条家の逼迫した状況を気遣われつつも、真心からの御供養を続ける時光殿の 純真な信心を賞されています。
ここに本宗信徒が鑑とすべき、時光殿の 怨嫉・迫害に怯まぬ確固たる信心と、並ぶ者なき護法の志を 拝することができるのです。
次回は、日興上人を富士上野へお招きし大石寺創建に至る経緯を紹介します。