Q、学会では「本尊は我々の胸中の肉団にある」といいますが、本当でしょうか。
創価学会のこの指導は、会員を 戒壇の大御本尊から引き離すためになされているものです。
そのために学会では、『日女御前御返事』の
「此の御本尊全く 余所に求る事なかれ。只 我等衆生、法華経を持ちて 南無妙法蓮華経と唱ふる 胸中の肉団におはしますなり」
(御書 一三八八頁)の御文を利用しています。
昭和五十二年路線の当時にも、学会は 同様の主張をしたことがありましたが、これについて
総本山第六十六世日達上人は
「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに 自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人は なんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」(達全 二-五-六〇〇頁)と破折されています。
〝胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊を拝む必要はない〟という学会の考えは、大聖人のお心に背く 悩乱の説というべきです。
解 説
創価学会では、宗門から破門されて以降、故池田元会長の迷乱に比例して、その本尊義も混乱・迷走 し続けていますが、その中の一つが、自分たちの心中に本尊があるのだから、戒壇の大御本尊を直接拝まなくてもよい、自宅の御本尊だけを拝めばよい、学会で複製した『ニセ本尊』でも問題ない、などとの大謗法です。
これは 戒壇の大御本尊の否定と 本尊不要への道筋を付けるものであります。
そもそも大聖人様は 何故に 漫荼羅本尊を御図顕なされたのか。それは 御一期の御化導における究竟本懐として、一切衆生を成仏に導くために、その 信仰の対象・対境として顕わされたのです。自分たちの心中を拝んで成仏するなら 大聖人様が御本尊を顕わす意味がありません。
また、自宅に安置の御本尊も、戒壇の大御本尊のお写しを、時の御法主上人の允可のもと、お貸し下げ戴いた御本尊です。それを戒壇の大御本尊を否定し、御法主上人猊下に背反しながら、しかも池田大作氏を信じて拝んでいるようでは 決して御本尊と境智冥合することはできず、成仏が不可能であることは明らかです。
まして、『ニセ本尊』で成仏できないことは当然です。
故池田大作元会長は、
「御本尊は決して遠くにあるのではないと。どこまでも『信心』こそが根本である。信心さえあれば何も心配することはないのである」
(聖教新聞 平成四年二月六日付)
と、御本尊よりも自分の信心(凡夫の迷心)こそが成仏の要件であるとして、暗に御本尊は不要と言い放っています。「信心が大事」「信心さえあれば」と言っても、その信心が向かうべき御本尊を蔑んでいたら、ただの邪義邪宗でしかないのです。
日有上人が、
「信と云い 血脈と云い 法水と云う事は 同じ事なり、信が動ぜざれば 其の筋目違うべからざるなり、違わずんば 血脈法水は違うべからず」
と仰せのように、信心=血脈=法水ですから、御歴代上人に流れる 唯授一人の血脈への 尊信の狂いは、即、御本仏大聖人からの血脈を塞ぎ、御本尊から各自に流れる 妙法の法水を 断絶させることになるのです。
現在、創価学会の新規会員にはペンダント型『ニセ本尊』を買わされ、与えられている者が多く存在します。これらの会員は 既に勤行の仕方も判らず、拝むという行為さえ 存在していません。すなわち 本尊不要の状況が進んでいるのです。これは正しく、故池田大作元会長の 狂信・邪義を 依拠としています。つまり、自身の心中に本尊があるからと煽りつつ、対境本尊の必要性を希簿化し、拝むという信仰姿勢そのものをなくしていこうとしているのです。
自分の心の中に御本尊があると言う創価学会員に対しては「それならば 家にも会館にも 御本尊は安置する必要はありませんよね」、「創価学会作成の『ニセ本尊』を拝まず、禅宗のように自分自身を拝めばすむのではありませんか」と問い糾すと共に、その邪義を破折してまいりましょう。との御指南です。
………φ(._.) 南無妙法蓮華経。