「日葬祭典 回想録」は「葬儀の話」「ヤクザの話」「神輿愛好会 櫻睦の話」「雑談」の4本柱で書き込みをしています。

 

戦後まだヤクザ組織が現在の様になっていない時に、東京芝浦周辺の博徒を「阿部重作」さんが皆んなを集めて、住吉一家を中心に関連する博徒とテキヤなど28団体を結集して、連合組織「港会」を結成したそうです。この時の港会の最高幹部が「向後平」さん、「髙橋輝男」さんでした。「向後平」さんが阿部重作さんの筆頭若者で、「浜本政吉」さんが阿部重作さんの若い衆で、港会の芝浦事務所の責任者でした。浜本政吉さんは後に赤坂の帝王として、赤坂、六本木を縄張りにして住吉連合会を一本化した「住吉会」の最高顧問になりました。

 

「向後一家」初代 向後平組長

「向後平」さんがJR中央線「高円寺」に「向後一家」を結成して、浜本政吉さんが筆頭舎弟で「西口茂男」さんが部屋頭で、浜本政吉さんは「西口茂男」さんの兄貴分になる訳です。この当時の西口茂男さんの兄弟分に「清水幸一」さんがいて、清水幸一さんは向後平さんが亡くなった後、幸平一家に養子に行って「幸平一家」十一代目総長になりました。

 

この2人以外にも兄弟分がいて「浜本兄弟会」と言って、西口茂男さんが世話人で他の一家にも兄弟分がいて全員で20名位いたと聞きました。また名称も港会ではなく「住吉一家」にして、阿部重作さんが住吉一家三代目会長になり、住吉一家五代目会長に「堀政夫」さんが継承した時に、「住吉連合会」と名称を改めました。

 

向後平さんはヤクザになった時から博徒を重んじていて、賭場を開いて博打で生計を立てて「向後一家」を支えて日本一の繫華街の「新宿歌舞伎町」を縄張りにする親分でした。

一方「髙橋輝男」さんは、従来の博徒の様に賭場を開いて博打で生計をたてる事には一切関与しないで、正業を拡大して経済ヤクザとして世界中の一流店が店舗を構えている「銀座」を縄張りにする親分でした。経済ヤクザの走りで貸植木、映画製作、ボクシングなどの興業などにも手を出して、最初は「大日本興業」という株式会社を設立して「一家」を結成する親分でした。

 

ある日、髙橋輝男さんの一家である大日本興業の幹部の葬儀を、浅草にある「妙清寺」でとり行なっている時に向後平さんが子分数人と車で妙清寺に乗りつけて、いきなり正面に座っていた髙橋輝男さんを射殺したのですが、向後平さんも銃弾を受けて亡くなりました。理由はわかりませんがこの内部抗争でいずれ「向後一家」二代目を継承する西口茂男さんが1人で罪を被り、懲役刑を受けて刑務所に服役をしました。

 

刑期が終わって「向後一家」二代目を西口茂男さんが継承しましたが、ただ「向後一家」初代が亡くなっていたので、跡目襲名は出来ませんでした。西口茂男さんが服役をしている間は、「早川守」代貸と「広瀬酉二郎」代貸の2人が「向後一家」を守っていました。早川守代貸はJR中央線「高円寺」に住居を構えて常に本部事務所にいましたが、広瀬酉二郎代貸は「広瀬組」を結成して「向後一家」の縄張りである新宿歌舞伎町に毎日出かけていました。新宿歌舞伎町の事務所には責任者の「西川」さんと組員の人達がいて、広瀬酉二郎代貸、熊川邦夫さんなどが毎日歌舞伎町の事務所に顔を出していました。

 

責任者の「西川」さんが若くして亡くなり、今迄歌舞伎町の事務所にいたのですが事情があって地方に行っていた「醍醐正男」さんが戻って来て、そのまま新宿歌舞伎町の事務所の責任者になりました。向後平さんはヤクザは博徒なのだから、賭場を開いて博打で生計を立てて「向後一家」を支えていくのがヤクザの生き方だと貫き、向後平さんの最期もヤクザらしい最期を貫いた訳ですから、私はヤクザの一家では「向後一家」は凄い一家だと思っています。

 

「向後一家」二代目 西口茂男組長

「西口茂男」さんが「向後一家」の跡目を継承したのですが、最初は対外的には「向後一家」二代目と思われていたのですが、自分ではまだ「向後一家」二代目を継承するだけの器量が無いので、「向後一家」の最高幹部の組員の人達には西口一門と呼ばせていました。私は新宿歌舞伎町の事務所の責任者の西川さんから「中村さん、葬儀の時は他の一家の人が誰も居ない時は「西口門下生の皆さんと呼ぶ様にしてくれ」と言われてました。

 

西口茂男さんが本格的に賭場を開いて博打で生計を立てる為に、JR中央線「高円寺」で賭場を開いたのです。この頃から早川守代貸から私の所に良く電話がかかってきました。「中村さん、今度うちの一家で野球チームを作ったので、試合の時には差し入れを頼む」「お正月に飾るお飾りを作るので、店の中を明るくして欲しいので葬儀の時の受付と同じ様に照明をして欲しいんだけれども」「忘年会を高円寺にある根津会館という、割烹料理屋さんでやるので下足番をして欲しいいんだけれども」という電話が良く早川守代貸からかかってきました。

 

広瀬酉二郎代貸からは「中村さん、どうしても毎日新宿歌舞伎町に行っているので免許証を取りたくても、教習所に行く時間がないので、個人で免許を取れる仕事をやっている人がいるみたいなので、誰かいい先生を探して欲しいんだけれども」と言う電話があって、免許を取れる様にしました。「向後一家」がこの様な状況で組員の人達が一丸になって、西口茂男さんの門下生として「向後一家」の為に働いていました。

 

西口茂男さんの自宅に行って西口茂男さんから、「中村、今から事務所に行くから一緒に行こう」と言われた事が数回ありましたので、西口茂男さんと一緒に高円寺の北口商店街を歩いていると、必ず知っている店の主人から声を掛けれて立ち話をしていました。西口茂男さんは本当に堅気の人達にも人気のあるヤクザの組長でした。

 

野球も対戦相手が増えすぎたり、お飾りもお店を出しているトビ職の人が出している店に迷惑がかからない様に、すべて予約で注文を受けていましたし、忘年会も参加を希望する人が多くて、2部制にしてやっていました。勿論「会費」以上の料理やお酒も余るくらい出していました。

 

組員の人達の人数も増えて、西口茂男さんが正式に「向後一家」二代目を襲名しました。しばらくしてヤクザの世界も変わってきて、山口組が箱根を越えて北海道に進出して来て、山口組の事務所を構えたのです。丁度その頃「住吉連合会」五代目堀政夫さんが亡くなり、これを機会に住吉連合会の組織改革をして、関東全域にある住吉連合会の各一家の総長が全員納得して、西口茂男さんを推薦して住吉連合会を一本化にして、名称も「住吉会」にして、「住吉会」六代目会長に西口茂男さんが、襲名したのです。住吉連合会の各一家の総長が全員「住吉会」六代目西口会長の「盃」を受けた訳です。

 

この様な事はヤクザの世界では普通では考えられない位凄い事なのです。そして山口組、住吉会、稲川会が全国にある独立していた一家を吸収していったのです。

 

「向後睦会」三代目 早川守組長

西口茂男さんが「住吉会」の六代目会長を襲名した訳ですから、「向後一家」三代目を早川守代貸が継承するのは当然の事なのですが、最高幹部の組員の人達は全員西口茂男さんから「盃」を受けている訳ですから、西口茂男さんに盃を返して、「向後一家」早川三代目から「盃」を受ければいいのですが、西口茂男さんは「盃」の重さを知っていますので、その様な事はしませんでした。

 

西口茂男さんは自分と一緒に苦労した時代に「盃」を交わした組員の人達に、一度も「盃」を返した事がありませんし、「福田晴瞭」さんが住吉会会長になった時も、「関功」さんが住吉会会長になった時も「盃」を交わしませんでした。結局西口茂男さんは「住吉会」の総長、総裁になっても「盃」を誰とも交わしていないので、現実には「住吉会」を引退しなかったのです。

 

その為に「向後一家」早川三代目組長には舎弟が1人もいなくなってしまったのです。その為に「向後一家」の名称を「向後睦会」という名称に変えたのでです。早川守さんは、自分で組を作らずただ「向後一家」の代貸として「向後一家」を守ってきた親分なのです。それに広瀬酉二郎代貸から、生前から「向後一家の三代目は、兄弟分がやって欲しい」と言われていたのです。それに広瀬酉二郎代貸が亡くなっていたのです。

 

「向後睦会」三代目早川組長には私は非常に可愛いがってもらいました。「向後一家」が西口茂男さんが二代目を継承してからは早川守代貸とはいろいろな仕事をやる度に呼ばれて、一緒に仕事の手伝いをしていたので気心も知れていたので、私も早川守代貸から電話がかかってくるのが楽しみでした。「向後睦会」三代目を継承してから電話で呼ばれる事はなくなったのですが、「住吉会」の大規模な葬儀の時には必ず私のそばに来てくれて「中村、ネクタイが曲がっているから」と言って、私のネクタイをきちんと直してしてくれました。

 

体調を崩して葬儀にあまり参列しなくなったのですが、たまに参列した時は私の方から早川守さんの座っている前に行って、ネクタイを直してもらっていました。本来であれば誰も知らない事なので別に「向後一家」三代目でも良かったのですが、それをしないで「向後睦会」三代目と一家の名称を変えてしまう訳ですから、やはり筋を通すヤクザの「一家」なのです。

 

 

「向後睦会」四代目 熊川邦夫組長

「熊川邦夫」さんは、10年近く西口茂男さんの運転手をやっていて、西口茂男さんの信頼も厚く西口茂男さんの息子さんと、熊川邦夫さんの息子さんの2人が一緒にアメリカに留学するほどの関係でした。おそらく西口茂男さんは自分の後の「向後一家」を熊川邦夫さんに継承させるつもりだったのだと思います。ただ残念な事に四ツ木式場で「稲川会」のヒットマンに射殺されてしまいましたので、「向後睦会」四代目の会長の期間は非常に短かかったのですが、熊川邦夫さんにも私は随分と可愛いがってもらいました。

 

熊川邦夫さんと「幸平一家」十二代目総長代行の「五十嵐孝」さんとは兄弟分ですし、西口茂男さんと「幸平一家」十一代目総長「清水幸一」さんも兄弟分なので、「向後一家」と「幸平一家」とは非常に仲が良くて西口茂男さんも「住吉会」の将来の事を考えたら熊川邦夫が生きていたら安心していたと思います。非常に残念な事だと思います。

 

私が住吉会本部の指定葬儀社になって、住吉会の葬儀のやり方をすべて改革する事になった時に私が住吉会本部に行って事務局長、事務長、室長が私を呼ぶ時に「葬儀屋さん」「中村さん」「中村社長」といろいろな呼び方をするのを熊川邦夫さんがそれを聞いていて、私に「中村社長、中村社長の呼び方を決めないと本部事務所でも仕事がやりにくいだろうから、中村社長と呼ぶ様にしよう」と言ってくれて、皆んなの前で私の事を「中村社長」、「中村社長」と呼んでくれたおかげで「住吉会」本部の事務所の人達全員が、私を呼ぶ時に「中村社長」と呼んでくれる様になったおかげで、私は非常に仕事がやりやすくなりました。

 

また熊川邦夫さんが「中村社長、うちの若い衆が何か商売をやりたいのでと言っているので何か協力してあげたいので、パチンコ屋の店の前によく造花の花が並んでいるので、あの造花の花をうちの一家で面倒を見ているパチンコ屋さんがかなりあるので、そこのパチンコ屋さんに置いてもらおうと思っているので、何処か造花屋さんを紹介してくれる」と言われたので、私が知っている造花屋さんを紹介したら、熊川邦夫さんの奥さんが後はすべてやっていたみたいで奥さんに大変喜ばれました。この様に夫婦が仲が良くて若い衆の面倒を見る人なんだなと思いました。

 

ただヤクザの世界では葬儀式場での内部抗争はともかく、他団体同士の抗争事件はご法度なのに葬儀式場で初めてヤクザの他団体同士の抗争事件が起こって「向後睦会」の組長が亡くなるという事件が起きたのですから、一家としては直ぐに「報復」をするのが当然の事なのですが、「住吉会」六代目西口会長」の「中村、もうそういう時代ではないよ」の一言で、直ぐに手打ちが行なわれたのです。この様な事もヤクザの世界では初めての事なのです。向後睦会という一家はその様な一家なのです。その為に地下に潜った「向後睦会」四代目の組員のヒットマンも報復をやめたのです。

 

「向後睦会」五代目 醍醐正男組長

直ぐに「向後睦会」五代目を決めなくてはならなかったので、私の頭の中には2~3人の顔が浮かんでのですが、誰が継承するのかが楽しみでした。私の耳に入ってきた情報では新宿歌舞伎町の責任者の「醍醐正男」さん、新宿職安通りに事務所を構えている「加藤考次郎」さん、渋谷の道玄坂に事務所を構えている「津波宏志」さんの3名の名前が入ってきました。ただ「津波宏志」さんは年齢が若いのと、事務所が渋谷だったので次の代ではないかとも思っていました。

 

結局、醍醐正男さんが、「向後睦会」五代目を継承したのですが、数年後に「向後睦会」の名前を汚したので、破門と代目抹消をされて、新しく「向後睦会」の五代目を決めなくてはなりませんでした。

 

「向後睦会」五代目 加藤考次郎組長

「加藤考次郎」さんの自宅は、西口茂男さんが「住吉会」六代目会長になって、自宅の隣に「本家」を新築する時に西口茂男さんは親友の「崎山」さんの自宅で暮らしていたのですが、奥様は中野坂上にあるマンションで暮らしていました。「本家」が出来上がったので奥様が自宅に戻られたので、奥様が暮らしていたマンションを「加藤考次郎」さんが譲ってもらい加藤幸次郎さんの自宅にしたのです。ただ「向後睦会」五代目を継承した頃から体調がすぐれず、亡くなったので当然津波宏志さんが「向後睦会」六代目を継承したのです。

 

「向後睦会」六代目 津波宏志組長

「津波宏志」さんは若い頃から渋谷の道玄坂に事務所を構えて、舎弟も多くいましたし人望や経済力もあり、何より西口茂男さんに非常に可愛いがられていました。ときどき私が「本家」に用事があって行っている時にも、津波宏志さんがいる事がありました。津波宏志さんと西口茂男さんが話した後になって、私が西口茂男さんと話しをすのですが、いつも西口茂男さんと会って話しをする時の西口茂男さんの雰囲気が違うのです。多分津波宏志さんの事が気に入っているのだからだなと私は思っていました。

 

それと津波宏志さんは、若い頃から西口茂男さん、早川守さん、広瀬酉二郎さんの背中を見てヤクザの修行をしてきた訳ですから、ヤクザの主流の親分の生き方や考え方を良く知っていますし、何より堅気の人にも人気があるので、健康にさえ気をつければいずれ「住吉会」の会長になる第一候補だと思っています。

 

西口茂男さんが亡くなった時は、奥様と私と津波宏志さんの3人で西口茂男さんの家族葬の「日程」「場所」「時間」「参列者の人数」などを決めた訳ですから、大変な実力者なのです。津波宏志さんにも私は大変可愛いがってもらいましたし、相談にものってもらいましたが、なにより西口茂男さんと同じ様に話しやすく、人の話しを良く聞いてくれるので「暴対法」が施行されてもびくともしないしないで「向後睦会」を守って行くと思います。

 

最後に「向後一家」初代は博徒を目指して賭場を開いて博打で生計を立てて「一家」を守ろうとした親分で、舎弟には後の「住吉会」の最高顧問で、赤坂の天皇と言われた「浜本政吉」親分がいて、弟分の人達が浜本兄弟会を作って「向後一家」二代目の「西口茂男」さんが世話人になり、浜本兄弟会の中から住吉会「幸平一家」十一代目総長「清水幸一」さん以外にも他団体の親分がいて、「西口茂男」さんが関東、東北、北海道に住吉連合会の事務所を構えていた各一家の総長の全員から推薦を受けて、住吉連合会を一本化して名称も「住吉会」にして、「住吉会」六代目会長になったわけです。

 

三代目の「早川守」さんの時に、「西口茂男」さんの意向で盃返しをしないで「向後一家」の名称を「向後睦会」変えるという普通では考えられない「一家」の名称を変えました。今迄「西口茂男」さんと苦楽を共にしてきた子分の盃の重さを大切にしたわけです。ヤクザの人達にとって誰の盃を受けたのかはとても重要な事なのです。やはり「住吉会 会長」の盃を直接受けた子分にとっては一番大切な事なのですから、「西口茂男」さんという親分は誰よりも「盃」の重さを知っていたのでしょう。

 

四代目の「熊川邦夫」さんは、ヤクザの世界では葬儀式場ではご法度の抗争事件に巻き込まれ、凶弾に倒れ最期を迎えたのですが、報復をしないで直ぐに手打ちをしました。一度もJR中央線「高円寺」には住んだ事がなかったのですが、高円寺の葬儀式場で葬儀を行ない、高円寺にある「向後一家」から歩いて行ける所にあるお寺さんに墓地を購入して、その墓地に埋葬されました。

 

五代目の「醍醐正男」さんは、「向後睦会」の名前を汚した事が知られて、即「破門」「題目抹消」されました。ヤクザにとって「一家」の名前を汚されたら、例え五代目を継承した組長さえでもきちんとしたけじめを取らされる「一家」なのです。その為に「向後睦会」の五代目には「加藤考次郎」さんが継承したのですが、体調を崩して大変だったと思います。

 

六代目の「津波宏志」さんは渋谷の事務所から新宿の歌舞伎町の事務所に移転しました。歌舞伎町の事務所は地下1階が組員の人達が体を鍛える為のスポーツジムになっていて、いろいろな器具が置いてあります。1階が駐車場で車を出せば祭壇を飾り付けて生花を20基置いて、パイプ椅子を10脚は置けるので家族葬は十分出来るので数回葬儀を取り行なって事があります。2階が事務所になっていて、3階が組員の人達が泊まれる様になっていて、和室の部屋が別れています。事務所の周りはすべてビルで近隣住民の方には誰も迷惑がかからない場所にあるいい事務所です。