「日葬祭典 回想録」は「葬儀の話」「ヤクザの話」「神輿愛好会 櫻睦の話」「雑談」の4本柱で書き込みをしています。

 

「顔写真と略歴」                               

秋○ ○○

 

出身は伊豆大島で、18才の時に三鷹市にある「杏林大学病院」の事務員として働いていた「姉」を頼って東京に来たそうです。「姉」はその後「杏林大学病院」の職員の人と結婚をして、2人の子供がいます。なかなか気立てがよくて当社のセレモニーレディの仕事をした事があります。A社員は29才の時に当社のセレモニーレディとして入社しました。

 

人と話したり人前で話すのが苦手なので、今まで仕事についても長続きしないので、セレモニーレディの仕事ならば人と話さないで、ご遺族の人の案内をするのが主な仕事と姉から聞いたので、セレモニーレディの仕事なら自分でも出来ると思ったので、入社したいと思ったのが理由です、と話していました。

 

3年近くセレモニーレディの仕事をやっていた時に当社の事務員が退職したので、セレモニーレディを辞めて当社の事務員として働く様になりました。キャリアウーマンとして生きていくのが夢だというので、時々葬儀の司会の練習をしていました。

 

当社も規模が大きくなりA社員に病院担当、経理担当をまかせる様にしました。10年以上1人でやってもらっていたのですが、1人だけではなくもう1人病院担当、経理担当を増やそうとしたら「必要がありません」と言うので、他の社員には病院担当、経理担当をやらせませんでした。

 

会社も安定してきて葬儀社にとっては、ドル箱中のドル箱の「緩和ケア」の病院の指定葬儀社に内定した時に、次期社長候補の「中神」社員の前にワンリリーフでA社員を代表取締役社長にしました。

 

会社にとっては何の実績も無いA社長を連れて、都内の6ヶ所の火葬場に行って、私が今迄お世話になったお礼と、新しく社長になったA社長の紹介を兼ねて2人で挨拶に行きました。記念品に事務所の所長には、¥50000円の2本セットのモンブランのボールペンを、作業所の責任者には、¥100000万円の財布、サービス課の責任者にはブランド品の¥30000万円のネッカチーフを渡しました。

 

ただこの様な事をした葬儀社の社長は、過去に1人もいなくて、私の事が各火葬場や葬儀業界で評判になって、A社長は何処に行っても、皆んなからA社長に「中村会長は元気?」「中村会長によろしく」と言われたらしく、言われるのが苦痛だったみたいだす。

 

私は創業者ですし、ヤクザの葬儀をやる時も、「住吉会」の西口親分の自宅に直接伺って直談判して葬儀のお願いをしたり、一般葬をやる時には病院、寺院、老人ホームなどの指定儀社になった時も、私が飛び込み営業で指定葬儀社になった訳ですから、「A」社長はこれといった実績がは何も無いので、社長になっても、私に対するコンプレックスは非常に強かったらしく、早く私を会社から追い出したかった様です。

 

神輿愛好会「櫻睦」会長

 山○ ○○

 

出身は伊豆「稲取」で、高校を1年で中退して、私の弟が実家を継いだ京王井の頭線「永福町」駅北口の商店街にある小さなラーメン屋さんで、自転車で出前持ちをやっていました。私の実家は1階がスナック、2階が葬儀社、3階が弟の自宅でラーメン屋さんに出前を頼むと、このY社員がラーメンを3階まで運んで弟と知り合いになったそうです。

 

この小さなラーメン屋さんが廃業をする事になり、私の弟のスナックで働く事になったのです。今までラーメンの出前持ちしかやった事がなかったので、調理師の免許を取る為に昼間は学校に通って、調理師免許を取ったり、車の免許も取って頑張ったそうです。

 

弟から「スナックは夜の仕事なので、昼間の空いている時間で「日葬祭典」でアルバイトをさせてやって欲しい」と頼のまれたので、時々スナックに負担がかからない様な葬儀の時に、このY社員をアルバイトで使う事にしました。1度「ヤクザ」の葬儀を手伝ってもらったら、非常に「ヤクザ」が好きなのと、「ヤクザ」に憧れていていつも義理、人情、恩義の話しをしていました。

 

かといって自分がヤクザになるほど度胸もないし、腹も座っていないのですが、とにかく「ヤクザ」と知り合いになりたいという願望が強く、「ヤクザ」の葬儀の時に当社の社員が誰も付けていないのに、自分だけ胸に大きなネームプレートに自分の名前を書いて付けていて、ヤクザの人達に名前と顔を覚えてもらうのに一生懸命でした。

 

私の人生の中で、こんなに「ヤクザ」と知り合いになりたがっていた社員は初めてでしたし、非常にヤクザが好きなのと、憧れているので1度ゆっくり話す時間を取って聞いた事があります。

 

理由はこのY社員が生まれて育った、伊豆「稲取」という所に、網元料理店で「徳造丸」という店があり、この「徳造丸」という店は、土産物、パチンコ店などを手広く経営していて、そこの息子と小学校、中学校がずっと一緒で、その息子の父親が地元の「ヤクザ」を知っているらしく、その父親が「ヤクザ」と話しをしている姿に憧れて、「自分もそうなりたいのです」と話すのを聞いて、「ヤクザ」と知り合いになりたい理由がわかりました。

 

ただ当社でヤクザと知り合いになれるのは、私と「中神」、「小田」の3人しか仕事の都合で知り合いにはなれませんので、このY社員は「中神」、「小田」の2人の社員に対して、ヤキモチ、シットは凄かったみたいです。弟も私と一緒に葬儀を主体にする事になり、このスナックをY社員に安い家賃だけで譲りましが、繫盛していたのですがわずか3年弱で倒産してしまって、働く所が無いので弟から「Y社員を兄貴の会社で使ってやって欲しい」と頼まれて当社で働く事になったのです。

 

Y社員の趣味はお神輿で、神輿愛好会「櫻睦」と言う愛好会の中でも特に活躍した担ぎ手だったみたいです。何しろ16才~18才までラーメン屋さんの出前持ちを自転車でやっていて、当社でテント張、ヒノキ看板の設営、テーブル、パイプ椅子の移動などの現場仕事をやっていたのですから、体力はあるのでいつ「会長」になってもおかしくない、1番の担ぎ手だったと思います。

 

ただヤクザが好きで、ヤクザに憧れていていつも義理、人情、恩義の話しをしていましたので、ヤクザの葬儀の時にヤクザの組員の人達が数千人もいる中で、ヤクザと話が出来るのは私と「中神」だけなので、他の社員とアルバイトは葬儀が終わる迄車の中で待機をしているのですから、Y社員の私と「中神」に対する憎しみは凄かったものがあった様です。

 

例えば葬儀が終わって「住吉会」西口親分が帰る時は、葬儀式場の前に車を止めて「住吉会」の各一家の総長と最高幹部の人達が車の側に集まって、西口親分が来るのを待っているのです。西口親分は必ず後部座席の左側に座ります。そして窓を開けてから必ず「中村」と呼ぶのです。呼ばれたら私と事務局長の2人が側に行くと「中村、今日はご苦労さん。明日も頼むよ」とねぎらってくれるのです。

 

そして直ぐ側で「中神」がスナップ写真を写すのです。そして車はゆっくりと走って火葬場の出口近くにいる警視庁捜査4課の刑事さんが集まっている所まで行って、西口親分が車から降りて来て、雑談をしてから帰るのです。勿論私も一緒にいますが、私はそれから1人で火葬場の出口の外でお見送りをするのですが、必ず車のスピードを落として私に手を振ってから帰ります。

 

帰る時でさえこの様な状況なのですから、葬儀式場の中ではもっと親しくしています。この様にY社員もなりたかったのでしょうが、それはかなわぬ夢だったのです。その為に私と「中神」に対する「ヤキモチ」と「シット」は凄かった事を、社員全員が知っていたと聞いています。

 

それと私と次期社長候補の「中神」が会社にいなくなればいいと思っていたのでしょうし、お金だけではなく私と「中神」が会社にいなくなるのなら、どんな卑怯な手を使ってでも、いられなくなる様に、やりたかったのだと毎日思っていたのだと思います。

 

 

青○ ○○

 

出身は杉並区堀ノ内「妙法寺商店街」の中にある「魚屋」の娘さんで、この幹部社員の父親と私が知り合いで地元の私立高校を卒業して1年間大手の企業に勤めていたのですが、人間関係が上手くいかなかったのとギランバレー症候群という難病になり完治してから当社に入社しました。ただ病気が完治してもいつ再発するかわからないので当社で働いていれば自宅から会社も近く両親も安心なので、当社に入社したのです。

 

入社した頃は当社もそんなに忙しく無くて、少しでも身体の調子が悪いと思ったらいつでも休んでもいい様にしていました。その為仕事は事務所の電話番が殆どで最初は自分でも用事がない時は気まずかったようですが、会社が忙しくなるにつれてその様な事も無くなり事務所を任せられる社員がいるので安心して仕事ができました。

 

籍入れませんでしたが20年以上同棲をして、男の子が1人います。ただ残念なのですが、その同性愛手が事故で精神疾患になり、働けなくなったので、西武新宿線の「所沢」にある施設に入所させて、一方的に別れてしまいました。子供は反対したみたいなのですが、生活が出来なくなるのと会社に迷惑がかかるという理由で子供を説得したようです。

 

自分の子供を会社に入社させたのですが、1年間で退職して他の職業に付いて一緒に生活をしています。ただ私が1番気になっている事は、両親のお墓があるのにそこのお墓に埋葬しないで、当社が時々菩提寺がいない時に葬儀の時に来てもらうお寺さんの「無縁仏」のお墓に埋葬したことです。

 

とにかく10代の頃から、お金に対する執着心は異常な位強くて、両親が亡くなり、お墓に埋葬する時に「お金がかかるから」と言うので、無縁仏のお墓なら最初に¥10000万円を支払えば埋葬してくれるので、無縁仏のお墓に埋葬したのです。

 

 

田○ ○○

 

出身は群馬県高崎市で、祖父、父親と3代続く老舗の葬儀屋さんの長男で自分が3代目を継いだ時に倒産して、家庭を捨てて1人で東京に来て杉並区にある救世軍でボランティア活動をしながら生活をしていたようです。

 

かなり強いアルコール依存症になり、いろいろな精神病院で入退院を繰り返してやっと京王線「八幡山」にある都立「松沢病院」の院長の治療で普通の生活が送れる様になり、アルコール依存症の自助グループの「AA」に入って、ハローワークから当社に入社しました。さすがに葬儀社の息子だけあって2~3日でどんな仕事もこなしてくれました。

 

ただ「ヤクザ」の仕事はやった事がなかった様で、ヤクザの葬儀の時だけは電話だけの仕事についてもらいました。自分の実力不足で親の3代続けてやっていた葬儀社を倒産させた事で、自分には実力が無いのを知っているので、使いやすい社員です。

 

ただ東京に出て来てからの生活はひどくみじめで大変だったみたいで、お金になる為にはどんなに人が嫌がる仕事でもやると他の社員が言っていたので、お金に対してはやはり異常な位執着心があったみたいです。