「日葬祭典 回想録」は「葬儀の話」「ヤクザの話」「神輿愛好会 櫻睦の話」「雑談」の4本柱で書き込みをしています。

 

杉並区立「松ノ木中学校」の前の店舗付き住宅を借りて「日葬祭典株式会社」の本社にしている時に、ヤクザの住吉連合会「向後一家」二代目の早川代貸から私に電話がかかってきて、「中村さん、今度うちの一家の組員と家族持ちの組員で、海水浴に行こうかと思ってバス会社に車を申し込んだら、何処のバス会社も予約が一杯でバスが1台も空いて無いと言われたので、中村さん、霊柩車の会社で、観光バスもやっていると聞いたので、出来たらバスを頼んでもらえないかな?」と頼まれました。

 

この頃にヤクザ団体の「向後一家 二代目」の西口組長がやっと正式に向後二代目の跡目を継いだのです。向後初代が抗争事件で亡くなり西口組長が直ぐに二代目の跡目を継がなかったのです。

 

向後二代目を正式に継いでからJR中央線「高円寺」の商店街の旦那さん達を集めて賭場を開いたり、正月飾りを作ったりする様になったのです。

 

その為に西口組長の評判が知れ渡り、非常に人気のある親分になってきたのです。そして商店街の外れに根津会館という高円寺では1番大きな割烹料理屋さんで忘年会をやる様になったのです。

 

1番奥に西口組長が座り、両脇に早川代貸と広瀬代貸が座り並びに幹部の人が20人くらい並んで座り、後は賭場のお客さん達だけなのです。

 

会費は1人5,000円で料理は15,000円くらいなのを出すので、参加を希望する人が多すぎて2部制にしてやってました。またお飾りは高円寺で1番大きなナイトクラブを1日借りきって組員の人達が全員で作るのです。

 

店の中の照明は当社が葬儀の時の受付で使う、裸電球をぶら下げて店の中を明るくするのです。朝8時頃から始めて夜10時頃に終わるのです。組員の人達が全員バラバラで来るので1日店を借りているのです。

 

最後に当社が照明を全部外してお飾りの仕事は終了するのです。何処にも店は出さないで予約で受け付けるので、無駄は1つも出ないのです。これも賭場に来てくれる人に組員の人達が御用聞きをして買ってもらうのです。

 

そしてお正月に向後二代目の西口組長の自宅に組員の人達が全員新年の挨拶に行った時に、西口組長からお年玉としてもらうのです。このお年玉はお飾りの儲けを全部使うのと、金額は代貸も1番下の組員の金額も一緒なのです。

 

そして早川代貸は高円寺から外に出ないで高円寺を守っていましたし、広瀬代貸は毎日歌舞伎町に行っていました。

 

とにかく不思議なくらい「向後一家」は高円寺の人達に人気がありました。ある時早川代貸から「中村さん、地元に野球チームが2~3チームあって、試合をしましょうという事になったので応援に来て欲しいんだ」と言われました。

 

ユニフォームを見たら漢字で向後と書いてあり、若い組員が試合をしていたので飲み物を差し入れましたが、流石に身体がきつそうで可哀想だと思いましたが、対戦を希望するチームが多いので10試合位で解散をしました。

 

この当時は「向後一家」も総勢で5~60人くらいだったと思います。西口組長を中心に早川代貸、広瀬代貸が脇を固めていましたので、当社も仲間に入れて貰って可愛いがってもらいました。 

 

そしておそらく早川代貸の考えで海水浴に行く事を決めたのだと思いました。早川代貸に「何人位で行くのですか?」と聞いたら、「まだ、ハッキリしていないんだけれども」と言われました。

 

ただ車の中でゆったりして行きたいので「観光バスを2台借りて欲しいんだけど」と言われたので、「わかりました。必ず手配をしますから予定を立てても大丈夫ですよ」と返事をしました。

 

「それと日程は決まっているのですか」と聞いたら、「台風が来るとイヤなので、8月の最初の週で土、日は避けてくれればいいよ」と言われました。

 

霊柩車の会社で観光バスの仕事もしていたので、直ぐに霊柩車の会社に連絡を取って観光バスを2台手配してもらいました。

 

一旦電話を切ったら霊柩車の会社から電話があり、「日葬さん、日程と何処の会社で人数と場所はどこですか?」と聞かれたのです。

 

噓をつくわけにもいかないので「ヤクザの組員とその家族なので、ヤクザだけが乗って行く訳ではないし奥さんや子供も一緒に行くし、俺と中神も一緒に行くので大丈夫だよ」と答えておきました。

 

代貸にその旨を伝え場所を聞きました。「場所は千葉県の海水浴場で、あまり人が居なくて都内から近い所なら何処でもいいよ」と言われたので、バス会社に場所を決めて貰いました。

 

この頃は海水浴に行くといえば湘南の江の島、鎌倉に行くのが当たり前の時代だったので、千葉県と言われたので直ぐに海の家も借りられるだろうし、安心をしていました。

 

場所が決まったので代貸に伝えたら「中村さんも一緒に来てくれるよね?」と言われたので「私と葬儀の時にスナップ写真を写している中神も行きますし、中神がスナップ写真を写しますから」と言っておきました。

 

それと「組員の人達にもカメラは持って行かなくても大丈夫だという事を、伝えておいて下さい」と言ったら、「どうもありがとう」と言われました。

 

「それと海の家は一番離れた所にある海の家を借りる様にして欲しい」と言われたので、一番離れた海の家を借りる事にしました。待ち合わせ場所はJR中央線「高円寺」駅北口前のロータリーにして2台のバスに分乗して出発をしました。

 

子供たちも大喜びでバスの運転手さんが知っている休憩所で休んで、バスに乗る時はどちらのバスに乗ってもいい訳ですから、海水浴場に到着する迄には子供たちは皆んな友達になって楽しい雰囲気でした。

 

中神はスナップ写真を写さなければいけないので、バスに乗り変えたりして一生懸命働いていました。海に着いて私が海の家の人に挨拶をしたら大変喜んでくれて一番シャワルームから近くて、海に近い場所を貸してくれる様にしてくれました。

 

ところが皆んなが裸になって海水着に着替えると、どうしても入れ墨を入れている組員の人が大勢いるので、ヤクザの人達だという事が分かってしまい、その海の家には新しいお客さんが誰も入ってこないのです。

 

この時に早川代貸が「場合は千葉県で、人があまりいない海水浴場がいい」と言っている意味がわかりました。

 

これでは海の家の人に申し訳ないので、何か考えなくてはダメだなと思っている矢先、中神が「社長、皆んなに写真を写してくれと頼まれるのですが入れ墨が写らないように写してくれと言われたりするんです」と言うのです。

 

それに入れ墨を入れた組員同士の人が一緒に写す場合は、入れ墨が綺麗に見える様に写してくれよと言うので、熱い砂浜を走り回っているのでもうクタクタですよ」と泣き事を言い出したので、とにかく頑張って貰いました。

 

組員の責任者の人と海の家に迷惑をかけてしまったので、何かしなければ駄目だなと思って組員の人に相談をしたら、海の家で働いている人の中でお土産屋さんをやっている人がいるみたいなので、そこの店で何か買うことに決めました。

 

海の家の人に話をしたら、若い人が「自分の親父は、スイカ栽培をやっているのでスイカはどうですか?」と言ってきたので、直ぐにスイカをお土産にする事に決まりました。

 

ただ、近所の人達に配ったりする人もいるかもしれないので、一番大きなスイカを100個揃えて貰いました。

 

組員の人も、とれたての大きなスイカを持ちやすい様にしてもらって、100個持って来てくれました。2台のバスに50個ずつ分けて乗せてもらい子供たちは大喜びでした。

 

もうクタクタでいつ倒れてもおかしくない中神が頑張って皆んなが疲れてバスの中で寝ている人達の写真を撮っていたので、私が「中神、海水浴場で写真を写すよりも葬儀の方が楽だな」と言ったのです。

 

そうしたら「社長も1回海水浴の写真を撮ってから言って下さい」と不機嫌な声で言われました。

 

日葬祭典の本社に着いてから、江ノ島、葉山などの湘南地区ではなくて、当時は人の少ない千葉県の海水浴場を選んだり、一番奥にある海の家を選んだのかが何となくわかりました。

 

しかしヤクザの一家の組員の人と、組員の家族の人達が一緒に観光バスに乗って海水浴に行く訳ですから、向後一家の組員の人達の絆の強さがわかりました。この当時の向後一家は組員の人達がまだ4~50人ぐらいだったと記憶しています。

 

それが暴対法が強化されるまでは「住吉会」向後睦会の組員の人に達が1000人近くになっていたのですから、西口親分が「住吉会」会長になったら向後睦会も組員の人達が増え続けていました。

 

西口組親分の葬儀の時に海水浴に行った組員の未亡人の奥さん同士が連絡を取り合っていて、西口親分が亡くなった時にお通夜のお清め所で会った時に、皆んなご主人の写真を持って来た気持が良くわかります。