「日葬祭典 回想録」は「葬儀の話」「ヤクザの話」「雑談」の3本柱で書き込みをしています。

 

杉並区立「松ノ木中学校」の前の店舗付き住宅を借りて「日葬祭典株式会社」の本社にしていたのですが、ヤクザの葬儀をやる様になって資金的に余裕が出来て、京王井の頭線「久我山」駅から三鷹方面方面に向かって「〒久我山郵便局」の前を通り過ぎて5~6軒先の人見街道沿いに小さな4階建てのビルを購入して「日葬祭典株式会社」の本社を移転しました。

 

これで自宅と会社の通勤が車で出来る様になり、途中で会社の近くのファミリーレストランに寄って、ヤクザの葬儀だけではなく、一般葬をやる為の戦略を考える事も出来るので、本格的に一般葬の営業活動を始めました。4~5年で病院、寺院、老人ホームなど13ヶ所の指定葬儀社になりました。

 

会社に着くと2階に上がる入口のステンレス製の小さな看板に「日葬祭典株式会社」の会社名を見て、いずれ杉並区ではトップクラスの葬儀社になる事を目指して4階の事務所に行くのが日課になりました。になる事しました。

 

ヤクザの話題を取り上げている「週刊実話」という週刊誌の記者が本社に取材に来て、「中村会長は「ヤクザの送り人」ですねと言われた時に本当だと思いました」1番上の最初に写っている私のスナップ写真は「ヤクザ」が全盛期の頃の写真です。

 

この頃はヤクザ団体の「住吉会」では組員の人達と舎弟企業の人達を含めると35,000千人はいると言われていました。とにかく「住吉会」本部でやるで住吉会葬、関東二十日葬などの大規模な葬儀の参列者の人数はすごい人数でした。それに必ず1年間で10~15件以上は確実にやっていました。

 

それに「住吉会」本部葬は毎月一回「住吉会」本部でやっていました。

 

それ以外にも地方の葬儀式場で他の葬儀社の手伝いを含めると、かなりの件数のヤクザの葬儀をやっていた事になると思います。

 

その様な時代が暴対法が強化される迄30年近く続いていたのですから、私が全国の葬儀社の中でも1番「ヤクザ」の人達の葬儀を行なったと思います。

 

私は長男なので実家の葬儀社を継がなければいけないのに、弟に継いで貰って26才の時に「日葬祭典株式会社」という葬儀社を杉並区立「松ノ木中学校」の前の店舗付き住宅を借りて立ち上げたのです。

 

残念な事に3年間の間は殆ど葬儀の依頼がないので、何処の葬儀屋さんでも敬遠しているヤクザの葬儀をやる事に決めたのです。

 

日葬祭典の本社から1番近いJR中央線「高円寺」にヤクザ団体の住吉連合会「向後一家」の事務所があると聞いたので、直接「向後一家 二代目」西口組長の自宅を訪ねて西口組長に「ヤクザの葬儀をやらせて欲しいんです」と直談判をしたのです。

 

そうしたら、西口組長が「分かった、明日JR中央線「高円寺」駅南口にある事務所に行く様に」と言ってくれたので、翌日事務所に行ったら事務局長が「中村さん、二代目から聞いているし向後一家で協力をするから大丈夫だよと」言われました。

 

それと「他の団体の葬儀もやらせてもらう様に紹介をする様に、二代目から言われているので頑張って早く大きな葬儀社になる様に」と言われました。

 

そして住吉連合会「向後一家 二代目」西口組長が全国にある住吉連合会が「住吉会」に一本化して、西口親分の親子盃受けて初代「住吉会」会長になったので、当社が西口会長の後ろ盾で「住吉会」本部の指定葬儀社になれたのです。

 

これを機会に他の団体の葬儀はやらないで「住吉会」本部の葬儀しかやらなくなったのです。

 

私は「住吉会」のこれからの葬儀のスタイルを「住吉会」本部の事務局長、事務長、室長などを交えて話し合った結果「住吉会」の葬儀の改革をしました。

 

1番大きな改革はこれからは当社は「住吉会」の大規模な葬儀の住吉会葬、関東二十日葬だけを行い、一家葬は今迄通り各一家が付き合っている葬儀社がやる事に決めたのです。

 

今迄と違ってこれからは住吉会葬の時は、全国から住吉会の各一家の総長や最高幹部の人達しか来ないのと、関東二十日葬は、他の団体の親分と最高幹部の人達が参列する事にしたので、最初は不安でした。

 

しかし「住吉会」本部で1年間に10~15件の大規模な葬儀は必ず行なうので、最初は戸惑いましたが直ぐに慣れました。

 

暴対法が強化されてヤクザの大規模な葬儀が出来なくなりましたが、家族葬は出来るので「西口親分」が亡くなった時は当社しか出来ないので、「西口親分」の菩提寺で家族葬で行いました。

 

ただ「住吉会」の大規模な葬儀を含めますと、30年近くはヤクザの葬儀をやっていましたし、私の仕事は葬儀式場の中で働いていましたし、中神はスナップ写真を撮していたので、2人共全国のヤクザの各一家の親分、総長、最高幹部の人達には顔と名前は知られている事は、確かだと思います。

 

もう2度とヤクザの大規模な葬儀が出来無くなったので、当社が全国の葬儀社の中で1番ヤクザの葬儀をやった葬儀社になりますから私は「ヤクザの送り人」になると思います。

 

ある意味では凄い記録ですし今後全国にある「葬儀社」が絶対に抜く事が出来ない記録だという事はハッキリしています。

 

やはりヤクザの葬儀で1番印象が深いのは四ツ木斎場のピストル乱射事件で、この抗争事件は葬儀式場の伝説になっていますし、大田区に出来た臨海斎場で都内に在中しているヤクザの葬儀を出来る様にした事も、印象に残ります。

 

しかし四ツ木斎場の抗争事件の時は本当に焦りました。私が警視庁捜査四課の刑事に呼ばれて困っていた時に、西口親分が稲川会のヒットマンを警察署に出頭させてくれた事です。

 

それに火葬場の社長から「葬儀式場を明日も使うので、明日までに修理して欲しい」と言われたり本当に慌ただしい一日でした。