昨日9月1日を迎えたことで私は、主人の「命日」よりも主人のことを想っていたかも知れません。
そのくらい私にとっては命日とも並ぶような、悔しくて残念でならない日であったからだと思います。
そして、久しぶりにいろんな事を考えてましたが、
その中でとても思ったことが、
今の私は、「主人の死」があったから…の私なんだということ。
本当に悲しいことだけど、そこがあったことで私は今を必死に、一生懸命生きてるんですよね。
何も無ければ何も変わってないのはもちろん、「生きる」とか「死ぬ」とか、そんな事すらも足を止めてそこまで考えて見ることも無かっただろうし、
人の痛みなんて、こんなふうにわかるはずもなく、人としての成長みたいなものもなんっにも無いままに、甘く生きてたんじゃないかと思ってます。
でも今の私は、全てにおいて主人という存在が恐らく軸にもなっていて、
そこがあるからちゃんとしたい、絶対に恥ずかしい人間にはなりたくない、それは常にあるように思います。
そして、誰がなんと言おうと私の持つ、自分の後悔、反省、そこはやっぱり消えないです、微塵も。
わかってます。
今主人がそこを何とも思ってないだろう事も、
そして私も今こうして残されて生きているのだから、そこまで責め立てる必要なんかも無いかも知れない、
何よりそう、主人だって人間だから、そりゃあ至らない点だってあったのだろうともあまり思わないけど思います。
でもね、主人と私は全然違いましたから。
私自身の反省すべき点、後悔していること、それは本当に私は一生そこを忘れないで生きて行く、それしか無いとわかる部分。
人から言われて消える、軽くなるものでもきっと無いんですよね…
たぶん、私には全てが主人と繋がっているんだと思うけれど、
仕事を頑張ることも、
その日その日を真っ直ぐ?生きることとか、例えば献血に通うこととか、
そして人に優しく在りたいと思うところもみんなみんな主人の手前、恥ずかしくないよう、堂々としていたいから。
そして、それらが私の罪滅ぼし。
変な言い方かも知れないし、そこに繋がるものでは無いって言われるかも知れないけど、私の中では絶対的にそうです。
主人に返すことがもう出来ないから…
だから私は他のことに目を向けるしか無く、生きているこの世界で、この日常の中で、主人に対してちゃんと顔向け出来ること、生き方をしたい。
私の残りの人生もずっと、きっとそう思いながら生きて行くんだと思います。
昨日のこの件、
もちろんこの予定が決行出来なかったことがあまりに辛かったわけだけど、
その裏には大阪(京都)へ私は頻度よく行ってたのに、主人は(娘が居るところであるにも関わらず)一回しか行けなかった…
そんな事実も私には酷く悲しく、そして申し訳なさも感じます。
私だけが何日行こうが、それはそれは気持ち良くお小遣いまでくれて🥲送り出してくれて…神様みたいだと本気で思ってました。
だから私は、そんな全てを含めても、恥ずかしくない人として、
そこに主人への感謝を想いながら日々を過ごして行くつもりです。
本当に残念だけど、
なりたくてこうなったわけじゃ無いけど、
「主人の死」があったから…
少なからず私は人として成長したのかも知れません。
誤解のないように書きますが、
今の私はそんな罪の意識に押し潰されそうになるほど苦しんで生きてるわけでは全く無いです。
ただ、そこの部分って、人として自分を許せない…
完全には、そりゃそうなわけです。
だから、私流の?前を向きながら…の罪滅ぼし人生なのかなって思ってます。