こんな事が身近に起こってしまうと、常に常に危機感を持って生きているわけじゃなくとも、
やはり強く深く、いろんな事を考えることとなってます。
自分たちのとき、
主人を突然亡くして、恐怖とか悲しみとか絶望とかのごちゃごちゃな、マイナスでしか無い感情いっぱいで過ごした中、
現実に目を向けることこそも辛すぎて嫌だったし、
人と会うこと、それすらも避けたいような、ただ引きこもっていたいような自分もいたけれど、
それでも人様が、他人様が主人を想ってくれること、それが一番嬉しかった。
あの頃も、そして今もそうだけど、
主人のことに触れてもらえること、それが何よりも私は嬉しいし、それこそが供養にもなる気がしてます。
腫れ物に触るみたいに…
ではなく、どんどんそこ、触れて欲しい。
この世には居なくなった「大切な人」のことをどうかいついつまでも忘れないでいて欲しいと、そう心から願った、
それは今もだけれど、それが唯一であり最大の遺された私の喜び、慰めになってると心から思ってます。
私に出来ること、
何も出来ないまでも残された子どもたちの事を見守っていてあげる事と、
そしてやっぱりずっと、いつまでも忘れないで心に置いて、覚えて生きて行くこと、それしか無いのかと、落ち着かない気持ちの中で考えていました。
6年が経つともう、なかなか他人様から主人の話なんかは出ません。
そして、こちら(私)からも言えない、出しません。
でも本当はね、
何年経ったっていつまでも、いつも主人のことは話したい、
可能ならずっとずっとそこに触れて、話していたいくらい。
私はやっぱり配偶者だからかな、ず〜っと主人の思い出話をし続けたい。
けどそれって現実、
他人様どころか、「実の家族」でもなかなかね…。
現実は、それぞれに、心で想うだけ。
そういう事だよね。そりゃそうか。
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