舞台化されたものを見る予定があるので、原作も読んでみた。
ねじまき鳥クロニクル 言わずと知れた 村上春樹 の作品
題名が有名なだけに読んだような気もしていたが、どうも未読だった模様

2部まで読了したところで、先日アップした リトル・ピープルの時代記事はここ の本作に言及している所だけ読み直してみたりした。

村上春樹の作品は、ダンス・ダンス・ダンス ぐらいまでは(バブルが崩壊するまでは)刊行されるごとに読んでいた。あるいは読むことが当たり前のような感じだった。

「世界の終わり」を通勤時に持っていた時に、会社の人に、カバーの隙間から見えるピンク色で書名を当てられたのを覚えている。それほど、村上ブームだった。ただ、ブームに乗って読んでいたけど、読んで、良かった!とか 感動した!と思ったことはなかった。そのあとは読むのをやめてしまったのは、それが理由だったのかもしれない。

で、今回この歳になって改めて読んでみて、残念なことに、気持ちは変わらなかった。作者は僕より年上で、決して若年向きの小説ではないと思うのだけれど、(彼が45歳の時の作品だが) 受けた印象は変わらなかった。

ノモンハンの話などのモザイクのようなストーリーが寄せ集められていて、その各々はまあまあ先が気になるので、読めないことはないのだけれど、夏目漱石の「高等遊民」のような生活の主人公が、何の根拠も示されずにセンス・感覚だけで選択をしていく(井戸にもぐったり、クレタ島に行かなかったり、一日中人間ウオッチングをしたり)ことで進んでいくストーリーに なんの意味があるのかと思ってしまう。働かなくても生活していけるという状況も。

ナツメグという名前で、パセリ・セージ・ローズマリー & タイム と歌うように言う など の表現のところなど、スノッブの極み に思える。もちろんここが好きな人がたくさんいるのだろうということも分からなくはないが。

ワタヤノボルの力の怖さはわかるし、それを打ち砕くラストはある程度感動的ではある。オウムを背景にすれば言いたいことはわからなくは無い。でも、そのための表現として、この3巻もの長編が必要なのか? それを言うのにこの表現が適しているのか?

現実世界への示唆という意味では、あまりにかけ離れた生活・行動であり、そこに何かつながる普遍性があるのだとするのなら、それはあまりにも作者の独りよがりなのではないか。そして、かえってこの表現は主張を弱くしていないか?


結果として、これを舞台にしたものを見るのがとても楽しみになった。

★★★