【三重県・度会郡大紀町】瀧原宮 ~伊勢神宮125社巡り~ 4日め④ | 鳥居の向こう側

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埼玉県・東京都・千葉県・神奈川県の神社を中心に巡り、ブログを書いています♪

2022年10月15日。


【伊勢神宮125社巡り】4日めのつづきですおねがい


瀧原宮神社


【電車】

電車JR紀勢本線・滝原駅より徒歩18分。

【車】

車紀勢自動車道・大宮大台ICより約6分。


「伊雜宮」や「佐美長神社」を巡った後、来た道を戻り、伊勢二見鳥羽ライン→伊勢自動車道を経由して紀勢自動車道・大宮大台ICへ。

1時間かからないくらいで到着しました爆笑

2つの「遙宮」を電車で巡ろうとすると、かなりの時間を要します。

やはりレンタカー車にして正解でした⭕



度会郡大紀町滝原。
伊勢から熊野三山へと巡礼者がたどった熊野古道(熊野街道)の通る山間に鎮座する、「元伊勢」とも伝えられる皇大神宮の別宮です。
古くから内宮の「遙宮(とおのみや)」として崇敬を集めています。


「從是南宮域」の石碑。


鳥居

ついに、楽しみにしていた「瀧原宮」の神域に入ります照れルンルンルンルンルンルン


参道

広さ44ヘクタールの神域は、深い杜の中です。
樹齢数百年を超える杉の木立に囲まれた参道の長さは、約600mとのことびっくり

『伊勢神宮とは何か』の中で植島啓司氏も、
「荘厳な雰囲気が素晴らしく、空気が変わるというのはこういうことを言うのだろう。ここは特別な場所なのだという気がしてくる。」
と書いています。


大紀町は昔から林業が盛んな地域で、室町時代には大杉谷(大台町)が御杣山(みそまやま)とされ、伐り出されたご用材は宮川を下り、舟運船で伊勢へと運ばれていました。


神橋

橋の向こうに見えている建物は、
宿衛屋(授与所)です。


参道左手に手水舎アセアセアセアセ

なのですが…
参道の反対側、右手の苔むした石段を下って行くと、




参道の南側に並行して頓登川(とんどがわ)波が流れていて、
そこが御手洗場タラーになっています。

夫もすっかり心得顔で、
「手水舎じゃなくて川で清めるでしょ?」などと言い、すたすたと下って行きましたほっこり


頓登川(とんどがわ)波は、宮川の上流に注ぐ大内山川の支流です。
涼しげなせせらぎの音が響きわたります照れ音符音符音符


清らかな谷川の水タラーで心身を浄められる環境は、内宮に似ています。
冷たい空気が漂い、心身がキリッと引き締まるようです照れキラキラキラキラキラキラ


筑紫申真著『アマテラスの誕生』の

《第2章・皇大神宮の成立》の中にこうあります。

「皇大神宮」は、文武2年12月29日に出来ました。神格は【川の神】でした。
『続日本紀』には、
「文武2年(698年)12月29日 多気大神宮を度会郡に遷す」
とあります。
南伊勢の宮川の上流にある、現在の「瀧原宮」が、この「多気大神宮」の名残です。
瀧原宮の神=水戸神=川の神です。


宇治も元々【川の神】を祀る斎場で、土地の豪族が毎年「川の神祀り」=滝祭りをしていました。
五十鈴川の手洗い場が、「川の神祀り」の聖地でした。
同じ性格の神だったからこそ、瀧原の神(宮川の川の神)を宇治に移して、五十鈴川の川の神と合体させることが出来たのです。
現在の五十鈴川御手洗場のすぐそばに祀られている「瀧祭神」=皇大神宮の元々の神です。


ずっと佇んでいたくなるような、美しい御手洗場です乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ


1つだけびっしりと苔に覆われた、意味ありげな石がありましたキョロキョロ
蛙🐸のようにも見えます…。



参道に戻ると、左手の手水舎の先に、
忌火屋殿炎


その先の右手に、
祓所キラキラキラキラキラキラ

川沿いの祓所も、内宮と同じです。
修祓にふさわしい場所だと思いました。


が置かれ、胡床が並べられていましたが、今日これから修祓が予定されているのか…うーん
神宮ではこの日10月15日の夜から「神嘗祭」ですが、「瀧原宮」で「神嘗祭」が執り行われるのは10月22日~23日なので、まだ一週間も先です。


右手に写っているのが、いわゆる
「ねじれ杉」ですね。

「ゼロ磁場」であることがねじれの理由だとも言われているようです。


長い参道を抜け、やっと社殿が見えました!!


お参りは、
①瀧原宮→②瀧原竝宮→③若宮神社→④長由介神社の順に、
とのことです。



向かって右が、

皇大神宮別宮・
瀧原宮(たきはらのみや)神社【76】

【御祭神】
天照坐皇大御神御魂
(あまてらしますすめおおみかみのみたま)


神宮の中でも、特に歴史の古い別宮です。
『倭姫命世記』によると
真奈胡神(まなごのかみ)※の案内で、大小の滝が流れる「大河之瀧原之国」を訪れた倭姫命が、この土地の美しさに心惹かれ、二宇の社殿を造立して大神を祀られたのが起源と伝わります。
※真奈胡神については、次の記事で詳しく触れます。

その後「この地は天照大御神さまのお望みになっている地ではありません。」と諭し、大川の南の道より御殿を建てる場所を求めてさらに進みました。


このように一時期に大神が祀られた伝承がある地は「元伊勢」と呼ばれ、関西・中部地方を中心に数10ヶ所存在しています。

『皇太神宮儀式帳』には「天照大神遙宮」
『延喜太神宮式』には「大神遙宮」「伊勢と志摩との境の山中、大神宮西を去る九十里」と記されており、
『伊勢国風土記逸文』には「瀧原神宮」と記されているなど、その由緒の深さがうかがえます。



向かって左が、

皇大神宮別宮・
瀧原竝宮(たきはらのならびのみや)神社【77】

【御祭神】
天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)

「瀧原宮」と同神です。


「瀧原竝宮」の起源については不明な点が多く、様々な解釈がなされていますが、平安中期には「瀧原宮」同様に式年遷宮の制度が定まっていたと思われます。


両宮共に天照大御神御魂が御祭神で、2つのお宮を並べてお祀りするのは、
皇大神宮に天照大神を、荒祭宮に天照大神の荒御魂を奉祀する姿の古い形と言われています。

江戸後期編纂の『大神宮儀式解』には、「瀧原竝宮」の御祭神について、
「瀧原宮は本宮(皇大神宮)の御魂を拝奉るなり。その瀧原宮の御魂の荒御魂をまつる歟」
とあり、天照大神の荒御魂とも考えられています。



社殿左手に古殿地

それぞれの古殿地中央には、
「心御柱」の覆屋

2つの古殿地が並んでいるので、爽快なほどの広さですキラキラキラキラキラキラ


社殿と古殿地との間に、他では見なかった建物があります。



御船倉(みふなぐら)です。

「御船殿」とも呼ばれ、『皇大神宮儀式帳』にも「御船殿一宇」とあり、古くから存在する建物とのこと。

御神体を覆う「御樋代(みひしろ)」を納める「御船代(みふなしろ)」を収納する倉とされていますが、
古代以来の宮川の水上交通を象徴するという説や、
倭姫命が巡幸で使われていた御船が納められていたという説もあるとのことですキョロキョロ

御船倉は、かつては正宮や他の別宮にもあったそうですが、現存しているのはここ「瀧原宮」のみで、式年遷宮の度に、他の殿舎とともに造営されています。

※平成27年9月20日発行「ぱるく伊勢志摩」 
【お伊勢さんを訪ねる・別宮へお参りに】第3回・瀧原宮へ より。


『伊勢神宮とは何か』には、

天照大神は、遷宮祭にあたって一度は亡くなって「船形石棺」に酷似する「御船代」に収められ、新正殿へと運ばれて、そこで再びよみがえると考えられていた、という見解もあるが、
「船形石棺」は死者に関わる器物であり、穢れ要素を嫌う祭祀、しかも最高神・アマテラスの御神体を入れる容器が、死者を入れる棺を模したとみるのは無理がある。

あくまでも「船」船のかたちそのものなのではないか?
倭姫命が歩みをとどめた地の多くには、海(水)波の記憶が濃厚に残されている。
彼女はほとんど陸路をとっていない。

御塩浜から江神社→朝熊神社・鏡宮神社→内宮・瀧祭神を「五十鈴川系」とするならば、
多岐原神社→瀧原宮および潮石は、「宮川系」と言うことが出来る。
さらに、倭姫命が櫛を落としたことでその名が付いたとされる櫛田川に至る「櫛田川系」など、その移動は全て水路によるものである。
そうした地勢を考慮することなしに伊勢の信仰を語ることは出来ないだろう。

とあります。


「瀧原宮」の東側、石段を上がった場所に南面して鎮座するのが、


瀧原宮所管社・
若宮神社(わかみやじんじゃ)神社【78】

「皇大神宮」の所管社ではなく、「瀧原宮」の所管社です。
「伊雜宮」と同じく独自に所管社を持っていることは、やはり特別感があります。

創建については不詳ですが、鎌倉時代には社殿が存在していたようです。


【御祭神】
若宮神(わかみやのかみ)
瀧原の地に縁のある水の神タラーです。

明らかではないですが、御祭神は天水分神(あめのみくまりのかみ)との伝説も残っています。


「若宮神社」にお参りしてから、最後に手前の「長由介神社」にお参りしますお願い
 
境内の東端に西面して鎮座するのが、

瀧原宮所管社・
長由介神社(ながゆけじんじゃ)神社 【79】

【御祭神】
長由介神(ながゆけのかみ)
瀧原宮の御饌(みけ=食物)を司る神。

江戸時代には「長由介」=「長生き」に通じるとして、長生きの神であるとの民間信仰が広まり、長寿祈願の参拝者で賑わったそう。

いかにも江戸時代っぽい思考ですねニコニコ


【御同座】
瀧原宮所管社・
川島神社 (かわしまじんじゃ) 神社【80】

【御祭神】
川島神(かわしまのかみ)

両社ともきわめて古い由緒とされていますが、詳細は不明です。



第62回・神宮式年遷宮は、平成25年秋に両正宮と第一別宮で行われ、平成26年(2014年)11月7日に、「瀧原宮」「瀧原竝宮」でも遷御の儀が斎行されました。
同時に所管社のお社も新たになり、遷座が行われました。

年中の恒例祭および臨時祭には正宮に次いで丁重にお祭りが奉仕され、祈年祭・月次祭・神嘗祭・新嘗祭には皇室より幣帛が奉られます。


お参りを終え、神聖な空気に包まれた参道を戻ります。


参道途中の宿衛屋で、お札や御守り、御朱印が拝受出来ます。

【御朱印】

「守祓」も忘れずにいただきました。
これで内宮・別宮の「守祓」も全て揃いました照れキラキラキラキラキラキラ




『伊勢神宮とは何か』にはこうあります。
「瀧原宮」は宮川上流にあって、たくさんの瀑布と急流に恵まれ、自然景観の変化の妙を得たところとして知られている。
広大な森林地帯はおそらく神宮林にも負けない規模だと思えるし、
筑紫申真も「天皇家によって計画的に設営されたものに違いない」という感じを抱いた、と記している。
社殿のスケールを最小限にして、広大な森をそのまま残すという、古くからの神社のあるべき姿がそのまま生きているような気がする。

正面の鳥居の前に架かる橋は、かつては太鼓橋で、清浄者と不浄者とは別々の橋を渡らなければならなかったと伝えられる。

大内山川が宮川と合流する地点(船木)には、渓谷の突端に倭姫命の上陸地点である「櫻ヶ鼻」がある。
『伊勢國風土記逸文』によると、
「倭姫命、船に乗りて度會の上河に上りまして、瀧原の神の宮を定めたまひき」とある。
鎮座地は伊勢と志摩との国境にあって、熊野街道が西南より伊勢に入る関門となっており、地政学的にも信仰の面でも重要な位置を占めていたのではないかと思われる。
皇大神宮の「遙宮」として、内宮外宮に次ぐ格式を持っているのは当然のことながら、伊雜宮と並んで特別な地であることを強調していることになる。

旧瀧原道に沿った川沿いの道を歩いて行くと、「潮石」という見事な形状の巨石があり、石から木々が育って繁茂している。
「潮石」の下には小さな祠が祀られていて、土地の人々は山の神の拝所としているとのことである。


潮石(うしおいし)乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ

一旦神域を出て、熊野街道から、頓登川沿いの道に入ります。
「瀧原宮」「瀧原竝宮」の社殿から頓登川波を挟んでちょうど真南くらいのところにあります。

山の神を祀るのに、なぜ「潮石」と名付けたのか?
そこも倭姫命の山路遷幸の聖地として受け継がれてきているといい、「潮石」の他にも、「女瀧」「大瀧」など、このあたり一帯の地名には信仰の気配が色濃く反映されている。
こちらにも海の気配がそれとなく漂っているような気がする。
伊勢神宮の原始は、「漁撈信仰」である。




鳥居を出てすぐの右手に衛士見張所があり、その裏にトイレがあります。
この後「多岐原神社」へ行って伊勢市駅まで急いで戻るため、ここでトイレ🚻をお借りしたのですが…
驚いたことがありましたびっくり

それは、湿気ですタラータラータラー
この日は快晴太陽だったのに、トイレの鏡は何も見えないくらいに曇り、トイレットペーパーも使えるか使えないかくらいに湿っていました。
車に戻って鏡を見たら、湿気でクセが出る私の髪も、チリチリパーマをかけたみたいになってるー泣き笑い

それほどまでに【瑞々しい】【水の気配】どころではない「瀧原宮」なのでしたタラータラータラーびっくり

まるで「小さな内宮」とも言われますが、内宮よりも原始の雰囲気が残っていて、水タラーの気配が濃厚で、まさに古くからの神社のあるべき姿という感じの、癒されまくりの神域です照れ乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ

土曜日のまだ午前10時台だったため、参拝者がほとんどいないのもよかったです照れ
本当に帰りたくなくなりました。


次回記事が、今回の神宮125社巡りの最後の神社になります。
「多岐原神社」をご紹介しますウインク


長文の記事を最後までお読みいただき、ありがとうございました爆笑ルンルンルンルンルンルン



【参考文献】
・神社本庁監修『神社検定公式11・伊勢神宮と遷宮のかたち』扶桑社
・神宮司庁編・著『図解 伊勢神宮』小学館
・茂木貞純著『知識ゼロからの伊勢神宮入門』幻冬舎
・植島啓司著『伊勢神宮とは何か』集英社新書
・筑紫申真著『アマテラスの誕生』講談社学術文庫
・『改訂版・お伊勢さん125社めぐり』伊勢文化舎
・海部やをとめ著『倭姫の命さまの物語』冨山房インターナショナル
・「ぱるく伊勢志摩」 

・伊勢神宮公式HP
・伊勢神宮崇敬会 『お伊勢さん125社まいり』HP