2022年3月29日参拝。
三日月神社

「三日月神社」という名前に惹かれて行って来ました

石段。

鳥居。神明鳥居です。

社号碑。

「三日月神社」は、松戸市三ヶ月というところに鎮座しています。
鎌倉時代の初め、千葉介頼胤が三ヶ月台に築いた小金城の、鬼門・守護として創祀されました。
「三ヶ月」の町名の由来は、この小金城が三ヶ月台にあったからではないかと推測されます。
鳥居をくぐると、一対の石燈籠。

寛延4年(1751年)、三日月村の有志が、三日月にゆかりの出羽三山の峰・月山に参拝した際に、「月の神霊が宿る石
」を背負って持ち帰り、合わせ祀ったといいます。

「三日月大明神」として三日月村の鎮守としました。
さらに石段を上ります。


石段を上った左手に、こ、これは手水舎と呼んでもいいものか…


普通の住宅の庭とかに置く用のですよね

水は出なくて、手指消毒液のボトルが置かれていました。
拝殿






【御祭神】月読尊

【出羽三山について】
「出羽三山」は、月山・羽黒山・湯殿山の総称。
山ごとにそれぞれ、
月山神社・出羽(いでは)神社・湯殿山神社があります。
「月山神社」は山頂に、「湯殿山神社」は中腹の渓谷に鎮座していて、冬期は祭典を行うことが出来ないため、
羽黒山の山頂に、3社の「三神合祭殿」があり、3社を総称して「出羽三山神社」と呼ぶのです。
出羽三山は、江戸時代までは羽黒派修験道の聖山として信仰を集めました。
明治の神仏分離で大きく形を変えましたが、今も祭祀などに修験道の要素は色濃く残っています。
第32代・崇峻天皇皇子の蜂子皇子が、推古天皇元年(593年)に月山神社を創祀しました。
崇峻天皇が蘇我氏に殺された時、蜂子皇子は難を逃れ出羽国に入りました。
三本脚の大きな烏に導かれ、羽黒山の神の啓示を受け、月山で山の神を拝し、湯殿山で修行したといいます。
「月山神社」の御祭神も月読命です。

ご本殿覆屋。

真裏から。

【千葉頼胤について】
千葉頼胤は、仁治2年(1241年)に父・時胤が死去したため、わずか3歳という幼少で家督を継ぎました。
一族の千葉秀胤が頼胤の後見として事実上の惣領となりますが、宝治元年(1247年)の「宝治合戦」で、秀胤とその一派は滅ぼされます。
頼胤は幼かったため責任は問われませんでしたが、一族の多くが処分されました。
頼胤や叔父・泰胤は、一度失われた千葉氏宗家の権威と一族の結束を回復させるために、千葉氏と「妙見菩薩」の関係を前面に押し出したとする説もあります。
頼胤は、建長元年(1249年)、「香取神宮」の遷宮に際して、正神殿・一の鳥居などを造営しています。
幼少の時期は「亀若丸」を名乗っていましたが、元服後「頼胤」の名が初めて史料上に現れるのは、『吾妻鏡』です。
建長5年(1253年)に開催された「鶴岡八幡宮放生会」の参列者の中で、後陣の供奉の1人として「千葉介頼胤」が挙げられています。
「蒙古襲来」に出陣し、元軍と戦って傷を負い、建治元年(1275年)37歳で死去しました。
狭い境内には、石祠や石碑がたくさん祀られていました。
三日月大明神🌛

御祭神は、古くから人々の皮膚を護る神として信仰されています。
俗におでき等にご利益があるといわれ、豆腐をお供えする言い伝えがあるとのこと。
冨士嶽浅間神社


「月山神社」が山岳信仰(修験道)の神社なので、「冨士嶽浅間神社」や「大山阿夫利神社」が境内にあるのも納得です。
ほとんど常磐線沿いと言っていい場所、新松戸駅と馬橋駅の間に「三日月神社」はありますが、
この日時間がなくて行けなかった新松戸駅近くの「幸谷赤城神社」もまた、山岳信仰の神社です。
「三日月神社」には、珍しく狛犬がいませんでした

お読みいただき、ありがとうございました






