2021年4月21日参拝。
武蔵国横見郡の式内社のつづきです
高負彦根神社(たかおひこね)
~磐座のような玉鉾山の頂上に鎮座する式内社~
東武東上線・東松山駅東口より
バス【川越観光自動車】市民病院行き「マイタウン入口」下車、徒歩30分。
横見郡・三座のラストです
『吉見丘陵の西南端には、吉見百穴や松山城址があって、世人によく知られているが、その東部ないし東麓には、延喜式の神社が三社も鎮座していることは、あまり知られていない。』
と、『武蔵の古社』で菱沼氏も書いていた通り、どの神社も人知れずひっそりと鎮座していました
鳥居と社号碑。
木製の鳥居なのですが…
台石部分が長くて、石の長靴を履いているみたいです
鳥居の右にも、もう1つの社号碑。
鳥居の神額。
『延喜式神名帳』 武蔵国横見郡・三座の一「高負比古神社」に比定されています。
現在の社名は、「高負彦根神社(たかおひこね)」ですが、
『延喜式』では「高負比古神社(たけふひこ)」です。
創建は、和銅3年(710年)と伝わっています。
当社が鎮座する田甲(たこう)部落は『和名抄』に載る横見郡高生(たけふ)郷に比定されています。
たけふ→たかお→たこう と転化したのでしょう。
菱沼氏は、当地に竹やぶが多いことから、
高生=竹生=竹の群生する地。
としています。
地下水が浅いところに層をなし、水が豊富な地には、竹が多く群生します。
田甲の地は、旧荒川の水利とともに交通の要所でした。
丘陵部に突き出ている岩山が玉鉾山で、その頂上に当社が鎮座しています。
丘陵や沼は荒川が作り出したもので、玉鉾山の直下の平地も、かつては荒川の流路でした。
荒川は、2回に渡って瀬替えが行われています。
江戸時代以前は、利根川の支川として、現在の元荒川筋を流れていましたが、
熊谷付近で和田吉野川に付け替えられ、入間川筋を本流とする流れに変わったのです。
岩山の下には、かつては「湊石」があり、船の綱を結んだ石とされて、「船着き石」とも呼ばれていたそうです。
吉見丘陵東端の荒川流域に式内社が3社も存在したのは、この地域が早くから拓けていたためと思われます。
鳥居をくぐってすぐの左手に、
水盤
調べてみると…「珪化木(けいかぼく)」というもののようです
「木化石」とも呼ばれ、古代に何らかの原因で土に埋もれた樹木が、地層の圧力により細胞組織の中にケイ酸を含有した地下水が入り込み、石英や水晶などのように固くなって化石化したもの。
だそうです
木にも見えるし石にも見える、不思議な物体です。
地下水が浅いところに涌き出る、水が豊富な地ならではの水盤ですね
「高負彦根神社」は、横見郡三座のうちでもっとも古く、祭祀には渡来系氏族の壬生吉志(きし)氏が関係していたとされています。
前回の「伊波比神社」の記事でも触れましたが、
吉見町は、安閑天皇元年(534年)に置かれた横渟屯倉の推定地で、大化前代に集落地が既に存在していました。
屯倉管理のために、吉志氏が派遣されたものと思われます。
吉志氏は摂津を本拠地とし、海洋貿易などで膨大な経済基盤を持つ豪族。
一族は政治・経済はもちろん、祭祀においても重要な地位を占めていました。
宝亀3年(772年)の太政官符には、武蔵国の班幣対象社4社の内に「横見郡高負比古乃社」とあります。
横見郡の式内社3社のうち、奈良時代に官社に預かったのは当社のみです。
お馴染みの丸い石の石垣です
中世以降は衰退し、社号が「玉鉾氷川明神社」と改められました。
「玉鉾」は「玉鉾山」から。
「氷川明神」については、明治以前に氷川社の社家を務めた西角井家に伝わる「武蔵国造系図」によるものと思われます。
天穂日命の6代、五十根彦命の別名=高負比古命とある、とのことです。
拝殿
扁額。
【御祭神】
味鉏高彦根尊
【相殿】
大己貴尊
素戔嗚尊
※2神は前述のように、中世になって合祀。
創建から時代が経ち、社名の「高負彦根」から御祭神を味鉏高彦根としましたが、本来の御祭神は「高負比古神」だったものと思われます。
この土地を拓いた男性首長の性格の激しさを、「たけふひこ」とそのまま神名とし、死後に祀ったのが始まりなのかも知れません。
【楡の木の下の話】
吉見町の伝説に、こんな話があるそうです。
『昔この地方には鬼が住み、鬼の毒気により市野川(荒川水系の支流)の水も飲むことが出来なかった。
1人の若者が楡の木の下で川の流れを見ていると、美しい娘が声をかけ、一掬いの水を求めた。
毒の水だから飲めないと告げると、娘は、「里人のために清い水にしてみせましょう。」と言い、剣を若者に授けて市野川に飛び込んだ
すると川底から不思議な石が現れ霊気を発し、たちまち澄んだ清らかな水となり、若者は剣で鬼を退治した。
娘は岩室の観音様の化身で、若者の名は高負彦根命、高負比古根神社に祀られている。』
ご本殿の覆屋
境内社は1社のみ。
三峰神社。
【御祭神】
伊弉諾尊・伊弉册尊
社務所。通常は無人です。
鳥居の右手に、
獅子封じ塚。
高生郷(現・田甲)には、数百年前頃まで、悪病退散のため獅子頭を被り、戸毎を訪問する獅子舞の行事が行われていました。
ある年痢病が発生し死者が多く出たため、村人たちは産土神のお咎めと恐れ、獅子頭を境内に埋めて、その上に柊を植えて獅子封じをしました。
以来痢病は収まり平和になったとのことです。
境内の由緒板によると、
『高負彦根神社の三鉾』というものがあるとのこと。
三鉾は、
・御神体=湊石
・大柊
・菊水(湧水)
「湊石」は、荒川の瀬替えのところで書いた、船の綱を結んだ石とされた「船着き石」です。
伝説で、美しい娘が川に飛び込んだ時に出現した不思議な石かも知れません。
「大柊」は、獅子封じをした柊ですね
柊は、古くから邪鬼の侵入を防ぐと信じられています。
「菊水(湧水)」は、地下水が豊富なこの地域の特色です。
社殿の右手から、玉鉾山の頂上へ出られます。
ゴツゴツした岩山が見えて来ました。
社殿を振り返ってみます。
岩山には庚申塔が何基か建っていました。
標高38mの「玉鉾山」は、岩山の頂上、社殿背後の巨岩に近い地面を踏むと、鼓のようにポンポンと響くところから、「ポンポン山」とも呼ばれています。
地球の皮殻に大変動があった際に、内部に空洞が自然に生じたという説と、
ローム層と砂岩の境界面で音波が跳ね返るという、2つの説があるそうです
岩のすぐ近くの地面を踏んでみると、本当にポンポンと、中が空洞のような軽い音が鳴りました
穴が空いちゃいそうで、ちょっと怖いくらいでした
古代の人は、重々しく巨大な岩山の姿と、ポンポンと鳴る不思議な様子に、ここには神が宿ると思ったかも知れないですね
気持ちの良い眺めです
「玉鉾山」をすぐ下の道路から見上げてみました。
というか…迷って最初にこちらに着いてしまいました
巨大な磐座という雰囲気です
実は、この一帯が「ポンポン山公園」となっていて、駐車場🅿️も整備されていたりするのですが…
なんとこの玉鉾山の崖で、ロッククライミングを楽しむ人もいるのだそうです
菱沼氏によると、
田甲部落の今は畑となっている地には、戦前は古墳が10基ほどあったそうです。
中には二重の方墳も見られ、方墳=大陸系であることから、帰化人系の人が古い時代に祀った神社かも知れない、とのこと。
終戦後すぐの時代には、内部で空音のする岩の上に小祠があったそうで、岩石そのものを驚異と畏敬の対象として祀った可能性がある、と書いていました。
田甲部落の農家は、ほとんどが吉見丘陵の上に居住しています。
豊富な涌き水を利用して、早くから農耕が始められました。
地下水が地上のすぐ近くまで来ているところが多く、つるべを使用せず、井戸から直接柄杓で水を汲み上げているそうです
もしかして、横見神社に手水舎がなかったことと関係ある?と思いました。
どこからでも簡単に水を汲むことが出来るからなのかな
吉見丘陵の中、八丁湖の周囲に鎮座する、横見郡の式内社3社は、どれも素晴らしい神社でした
水と緑が豊富な、のどかな田園地帯、最高の神社巡りが出来ました
さて、最寄のバス停🚏まで30分歩きます。帰りはツラいです
貯水地の上を鯉のぼりが泳いでいました🎏
最後までお読みいただき、ありがとうございました
日付が変わったので、昨日になりますが、12月28日は私の誕生日でした
子どもの頃は、冬休み中の誕生日は嫌いでしたが、大人になった今は、1年の終わりに1つ歳をとるのは、区切りがよくて気に入っています
本記事が、2021年最後の記事になります。
いつも長い記事を最後まで読んでいいねをくださる皆さま、コメントをくださる皆さま、本当にありがとうございました
2022年も、どうぞよろしくお願いいたします
心から安心して楽しく過ごせる日常が、1日も早く戻って来ますように
良いお年をお迎えください