2021年4月1日参拝。
武蔵国式内社巡りのつづきです
『延喜式神名帳』 武蔵国比企郡・一座「伊古乃速御玉比売神社」に比定されています。他に論社はありません。
石段の上に赤い鳥居。
仁賢天皇年間(449~460年)に、蘇我石川宿禰の末裔がこの里を開き、二ノ宮山の頂上に、神功皇后と応神天皇、そして祖先の武内宿禰の三神を祀り創建。
文明元年(1469年)に当地へ遷座し、二ノ宮山頂の社を奥宮としたとのことです。
※Wikipediaで調べたら、蘇我石川宿禰=武内宿禰の子とのことでした。
二ノ宮山は、ここから北西へ1kmほどの距離にあります。
のちほどご紹介します
社号碑。
一の鳥居。
深い赤と黒(稚児柱部分)で構成された
両部鳥居です。
比企郡伊古は、「和名抄」にある比企郡渭後郷に比定されます。
「渭後」の読みは、水辺を表す「沼乃之利(ぬのしり)」
滑川に沿う細長い谷間の土地を指し、山あいに多くの溜池が設けられ、農業用水に利用されています。
渭後郷の地名については、渡来系氏族の壬生吉志(みぶきし)と関連があったとする説があります。
壬生氏については、男衾郡「小被神社」の時にも触れました。
7世紀初めに、比企及び男衾方面に入植した壬生吉志が、本拠地である摂津国難波の地名を比企の渭後にもたらしたとする説です。
渭後は「いかしり」とも読めます。
摂津国一之宮は「坐摩(いかすり)神社」。
坐摩大神は、流水・井泉の守護神です
石段の上に二の鳥居。
左手に手水舎
水は枯れていました
さらに少しの石段。
拝殿
拝殿内部
【御祭神】
大靹和気命(応神天皇)
気長足姫命(神功皇后)
武内宿禰
『武蔵の古社』の中で菱沼氏は、本来の祭神は渭後の地に坐す速御玉比売であろう、としています。
伊古という土地の地霊を意味する女神で、伊古の土地を開いた部族が、共同神として祀ったのではないかとの見解を示しています。
「速御玉」=姫神の霊威を讃えたもの、とのことです。
付近には2、3の古墳があり、そこに葬られた者が伊古を開いた部族の首長かも知れない、としています。
江戸時代は淡洲(あわず)明神と称していて、比企郡の総社でした。
淡洲明神は、安房国一之宮・「安房神社」の御祭神・天太玉命の后神である
天比理乃咩(あめのひりのめ)の別名であるとされます。
淡洲明神の「洲」は「しま」と読むことから、和歌山県和歌山市に鎮座する「淡島明神(加太神社)」の神を分霊したと思われます。
淡島明神は、住吉明神の妃神で、帯下の病により淡島に流されていて、女人の下の病を守る神・安産の神として信仰されています。
神功皇后&応神天皇も、安産の神という部分では共通しています
ご本殿の覆屋
覆屋の屋根のてっぺんに、千木と鰹木の付いた小さい屋根が乗っています
いろいろな格子のデザインが美しい覆屋です
境内の西側に境内社。
天満天神宮。
お馴染みの丸い石垣。
金刀比羅神社。
八幡神社。
石段下、両部鳥居の左手に、専用の参道があります。
古くは愛宕神社だったとのこと。
後に八幡神社を合祀して改称しました。
二の鳥居をくぐった右手に
社務所。通常は無人です。
御神木の黒松。
幹が妊婦のように膨れていることから、「はらみ松」と呼ばれ、安産祈願のために参拝者が訪れるとのこと
妊婦さんたちは、この松にお賽銭や洗米を供え、松の皮を剥がして煎じて飲むと安産であると言われているそうです。
さて…
石段を下りて、北西方向へ10分弱歩きます
伊古の里フィッシングパークと伊古の里農家レストランがあり、脇に二ノ宮山の登山道があります。
(登山道口がわかりづらかったです)
甘く見てたら、結構ハードな勾配でした
この石段が最後です
標高131.8m。二ノ宮山山頂です。
奥宮
その昔武内宿禰が東国を巡察した折、この山に登り、里の状況を視察したと伝えられています。
前述したように、その後子孫がこの里を開き、神功皇后・応神天皇・武内宿禰の三神を祀り「伊古乃速御玉比売神社」を創建。
伊古村の現在地に遷座し、里人は二ノ宮山頂の跡地には小さな祠を建て、「奥の院」と称して崇敬して来ました。
古くは二ノ宮山自体が信仰の対象となっていました
社殿内部。
群馬県の「榛名神社」を合祀し、毎年4月15日に例祭を行っています。
とても温かみのあるお社でした
社殿の右手にある石碑。
八大龍神です
いつ頃から二宮山頂に祀られたかは不明ですが、旱魃の時、村人がこの龍神に雨乞祈願をすると必ず雨が降るという霊験から、「雨乞いの碑」と呼ばれ崇敬されて来たそうです。
滑川町一帯では、農業用水として数多くの溜池が造られていますが、日照りの続く年は、二ノ宮山頂で雨乞いを行います。
雨乞いの時は、村人が集まり、生きた「やまかがし」を入れた長さ5m余りの藁蛇を作ります
山頂の松の古木に縛りつけると、蛇は天に昇って龍となり雨を降らせると伝わっているそうです