おはよう。すっかり寝るのにあきあきして、パソコンで遊んでいたら、こんな一文見っけ。
 自分で書いたものだけど、いつも書きっぱなし、ほったらかし、だから。風邪もなんとか鎮まったココ(子供の子)の誕生の際に思ったことを。覚書き、なんてしゃれて。

 先日、息子に子どもが生まれた。女児である。予定より10日ばかり早い。小さいながら元気そうな赤ん坊だ。一人息子だから、私にとって「孫」は彼の子どもだけである。で、・・・初孫。
 「孫」は関係性を表すことばであり、祖母も同様であるが、「おばあちゃんになったね」なんて声をかけられるのは、いい気分ではない。
 メメント・モリ。
 息子を産んだとき、私には、私の母が死ぬということが「分かった」。いのちの順番に行き当たった。世代をひとつ、死の方向に送り出すということに。母を送りだしたのは私。生在るものはみな死ぬ宿命だということが、むきだしになった。・・・あのときのおろおろとした気分・・・。
さて。
「茲心非心」という言葉がある。
慈悲という文字を分解して、この心、心にあらずと読み、慈悲の意味を表したものだという。「自分の心を中心とするのでなく、相手の心を心として生きる。いっさいの人々と同体であるという自覚を持って生きよ」。
 慈悲はキリスト教で教える憐みとは異なる。憐みは、神が示す愛情のことであろう。それは、イエスの贖いによって成り立つような、人の行為と結びついている。仏教の場合は「いっさいは同体である」という思想が支えとなっている。いずれの「我」も森羅万象と一体なのだ。一体であるからには、我がことだけで生きていこうが、他者を生きることになる。その自覚から慈悲という心が生まれる。
最近読んだ本に、「千年の祈り」(イーユン・リー 篠森ゆりこ訳 新潮社)がある。「修百世可同舟」という言葉に出合った。中国のことわざだという。
 「誰かと同じ舟で川をわたるためには、三百年祈らなくてはならない」。
 「・・・たがいが会って話すには―――長い年月の祈りが必ずあったんです。ここにわたしたちがたどり着くためにです」。
 「どんな関係にも理由がある。夫と妻、親と子、友達、敵、道で出会う知らない人、どんな関係だってそうです。愛する人と枕をともにするには、そうしたいと祈って三千年かかる。父と娘なら、おそらく千年でしょう」。
 息子と私は千年の祈りの後に親子となり、息子とお嫁さんは三千年の祈りによって結婚し、息子とその子どもも千年・・・つまり、私と孫との出会いには五千年の祈りを要したことになる。夫を勘定に入れると、八千年の祈りの末。
果たして人の一生が偶然からできるのか、必然からかできているのか、そんなことはどうでもいい。
人間の一生の短さに、あるいは、人は孤独であるということに気づかされたものは、自分の生きることの中に救い(そして、救いに似たもの)を見出そうとする。それが「慈悲」であるなら、祈りはまた、美しい。
 私との出会いも、願わくば、幸福な出来事でありますように―――と。